9.『鉄道』 エドゥアール・マネ
教授が予約していた店は、金曜日の夜とあってか賑わっていた。
居酒屋と小料理屋のちょうど良いところを足したような店の雰囲気にも、教授のセンスを感じる。悔しいかな、いい店だ。
出汁のきいた鯛の煮つけを肴に、教授の酒を飲む手も止まらない。
もう何本目かわからないとっくりに、松葉はあわてて教授の袂を引いた。
「教授! 飲みすぎです!」
「なんや、別に酔ってないねんから好きにさせてや。他人の金で飲む酒ほどうまいもんはないんやから」
「私のお金だからですよ!」
教授からとっくりを取りあげようと手を伸ばすと、彼はひょいとかわして松葉の手を取った。さすがは男性。力が強く、容易には振りほどけない。
「離してください!」
じたじたと暴れる松葉に、ケタケタと笑う教授。
「君はほんまにからかいがいのある……って、あ?」
ピタリと笑い声が止み、松葉も思わず静止する。教授はあからさまに眉をひそめていた。
「なんやこれ」
「何って……」
教授が見つめる先にあるもの。それは珠子からの餞別――運命を切り開く指輪――だった。控えめなカルサイトの輝きが居酒屋の蛍光灯に反射してやや黄みを帯びている。
驚きからかゆるんだ教授の腕をとっさにはらった松葉は、すかさず半分ほど酒の残っているとっくりをテーブルの脇へ。
なるほど、男よけとは本当だったらしい。
少しからかってやろうか。仕返しだ。
「綺麗でしょう? いただきものなんです」
松葉は見せつけるように教授へと微笑みを浮かべる。
「いただきものって、君なあ……」
いつもなら言葉の弾丸をマシンガンのように放ち続ける教授にしては珍しい態度だ。開口と閉口を一度、二度と繰り返し、歯と歯の間にものがはさまったような表情で松葉を見つめている。
「……まあ、ええわ。君が恋愛にうつつを抜かして、鑑定が失敗したらそれはそれでおもろいしな。またあのうるさい親父さんに言われるで」
「なっ⁉」
今度は教授がにたりと嫌味な笑みを浮かべる番だった。
「あんときは大変やったなあ。君の絵画を見に来はったと思ったら、こんなものは今すぐにやめなさい! やろ? 忘れられへんわ」
「やめてください! その話は聞き飽きました!」
「死ぬまでこすったるから安心しい。芸術なんてろくなもんじゃない、やもんなあ。娘の就職先を斡旋したったのは俺やっちゅうのに、君のお父さまときたら、俺のせいで、ときた」
悪酔いしているのか、教授が語る大学当時の思い出はナイフと化していた。何が気に食わなかったのか、明らかに攻撃の意志を含んでいる。
松葉が父とケンカし、いまだ仲直りができない状況に陥ったきっかけ。
その場に居合わせ、巻き込まれた教授は、この話をすれば松葉が傷つくと知っている。だから、なぜわざわざ蒸し返したのか松葉は不思議で仕方がない。
だが、松葉も大人になったのだ。いらだちを抑え、伝票を片手に立ちあがる。
「教授、酔ってるでしょう。もう帰りましょう」
「俺がザルやって君も知ってるやろ」
「そういうことを言う人ほど酔ってるんですよ。ほら、代行呼びますから。教授、立って」
「いやや」と子供みたいな駄々をこねる教授の手をつかみ、松葉は「んもう!」と彼を立ちあがらせる。彼のほうが十も年が上だなんて思えない。
当然ながら、会計は松葉もち。財布からなけなしの現金をとりだして支払いをすませる。
店を出た先、外は雨が降っていた。
運転代行を予約すれば、十五分ほどかかるという。
松葉は気まずさを飲み込んで、店の軒先で教授と雨を避ける。
教授は着流しの内側からタバコを取り出して、ライターで火をつけた。
闇夜に馴染んだ黒づくめの教授が炎でぽっと照らしだされる。カチリと響いた音は雨に消え、煙は雨の向こうに溶けていく。
「何むくれてんの」
「むくれさせた自覚はあるんですね」
「今更傷つくようなことか」
「傷つけたって自覚があるときは、素直にごめんなさいって言うんだって習わなかったんですか」
教授は聞こえないふりをして、長い息をはき出す。吸い終えたタバコをしっかりと携帯灰皿にしまいこみ、彼は車の扉を開けた。
「君も後ろに座り」
「何でですか」
「なんでも」
松葉は呆れながらもそれに従う。理由は聞かない。こういうとき、絶対に教授は理由を教えてくれないのだ。
後部座席、教授の隣へと腰を下ろして扉を閉める。
運転代行はまだ来ない。
「君、まだ親父さんと仲直りしてへんの」
揶揄でも攻撃でもない、教授なりの気遣い。松葉はそれを感じながら、窓をたたく雨粒を目で追いかける。追いかけても、追いかけても、どこかで見失ってしまう。
「教授なら、仲直りできますか」
「どうやろな。でも、君にとって唯一の家族なんやろ。俺は親父さんの気持ちもわかる。君はお母さん似やからな」
「……そうみたいですね」
松葉は母の姿を思い出した。写真の中で笑う彼女に、年々自らが重なっていくことは松葉も自覚している。
「教授は父の気持ちがわかるんですね」
「愛した奥さんとよう似たかわいい娘がおったとするやろ? ほんで、その娘が爆弾魔になるって作った爆弾見せてきたら、男はみんな親父さんと同じことするわ」
「意味不明すぎますよ。鑑定士は爆弾魔じゃないですし」
「知らん人間からしたら、同じくらいレアキャラやろ。あくまでもこれはたとえやけど、君の親父さんにとったら、芸術ってのはまさに爆発物なんやろな」
芸術は爆発やっていうやろ。
笑えない冗談を付け加えた教授は「知らんけど」と乾いた笑いを自らこぼした。
「明日から鑑定しよか。親父さんに君は爆弾魔じゃないってわからせたらなあかんからな」
教授は小さく呟くと「俺は寝るわ。代行が来たら起こしてな」と松葉の肩に頭をのせる。松葉が押しのけるのもおかまいなしに、彼はそのまま目を閉じてしまった。その横顔には微かな寂寞が残っている。
教授にとっても、松葉の母――上村穂仲の死は簡単に忘れられるものではないようだった。