6.『灯台のある丘』 エドワード・ホッパー
翌朝、冬にしてはあたたかな日差しが照りつけるカフェのテラス席で
「おととい依頼したばかりなのに、もう鑑定が終わったんですか?」
依頼主の青年、歌川芳樹はうれしそうに松葉を見つめた。
芳樹は今日も、白のパーカーにカラースキニー、スクエアリュックと今どきな大学生の格好だ。センター分けにした前髪もセットが決まっている。今から大学へ行くのだろうか。
松葉は、昨日珠子から得られたばかりの情報を切り出す。
「完全にはまだ。ただ、ひとまず制作年にはあたりがつきました」
「本当ですか!」
「あくまでも推測ですが、三百年ほど前に描かれた絵画の可能性があります」
「三百年? それって結構すごいですよね?」
「そうですね、もしも本当ならバロック時代の絵画です。いくらか値がつくかもしれません。保存状態も悪くありませんし、コレクターにとっては貴重な品ですから」
芳樹はバロック時代が何を指しているのかわかっていないようだった。だが、松葉の答えには満足したらしい。まるで命拾いでもしたかのように満面の笑みを見せる。
水を差すようなことを言いたいわけではないが、制作年が推測できただけで妙な期待を持たれても困る。松葉はとっさに高値がつくと決まったわけではないと予防線を張った。
「とにかく、そういった推測を確かめるためにも、本格的な鑑定を始めようと思います。魔除けの力のこともありますし……鑑定のために京都の芸術大学へ持ち込む必要があるので、ご許可をいただきたくて今日はご連絡を差しあげたんです」
「もちろんかまいませんよ!」
芳樹はサンドイッチにかぶりつく手を止め、即決した。
「少しでも鑑定の目途が立ったなら安心しました。上村さんに頼んでよかったです」
「そんな大げさな……。まだ鑑定もしていませんし」
依頼主からの早すぎる感謝に誇らしさ半分、戸惑い半分で松葉は苦笑する。スタートラインに立ったばかりだ。肖像画最大の謎、魔除けの力については何ひとつ解明できていない。
「それにしても、あの絵が三百年も前のものだったなんて知らなかったです。小さいころ、父があの絵のことをいろいろと話してくれたような気がするんですけど、全然聞いてなかったんですよね。僕が退屈そうだから、父もそのうち絵のことは話さなくなって」
言いながら食事を再開した芳樹に、松葉は「そうだ」と手をうった。
「もしよろしかったら、この肖像画について、お父さまにもう一度お聞きになられてみてください。先祖代々受け継いでこられた絵とのことですし、もしかしたら、いろいろとおわかりになるかもしれません」
「それじゃあ、僕が鑑定するみたいじゃないですか」
「私が鑑定するよりも早く何かわかるかもしれませんよ。その場合は鑑定料もお安くできますし」
特に、今回は素性のわからない絵画だ。珠子のところへ足を運んだように、情報収集も調査も通常の鑑定に比べて時間と手間がかかる。当然、それらはすべて鑑定料に反映される。
松葉が簡単に説明すれば、芳樹は驚くほど素直に「わかりました」とうなずいた。
青年の実直な姿に、松葉は昨日、銭洗弁財天で出会った男性を思い出す。
――あの人との境遇にもよく似てる。もしかしたら、この人も説得できるかも。
「歌川さまは絵画がお嫌いですか? 実は昨日、同じような境遇の方とお話する機会がありまして。その方は、絵画を売らなくてよかったとおっしゃっていたんです」
「それって、僕に売却をしないほうがいいって言ってます?」
「端的に言えば、そうなりますかね。ご家族で受け継いできた大切な肖像画とお聞きしたものですから。お引っ越しの邪魔になるというほど大きなものではありませんし、飾っておくだけでも……」
一瞬にして芳樹の表情が変わる。松葉は思わず口をつぐんだ。
彼の顔は朽ちた花のように沈鬱であり、親とはぐれた子供のようでもあった。
芳樹はエスプレッソを一気に飲み干す。長く息をはいたあと、ためらいがちに開かれた彼の口から弱々しい声が漏れた。
「変かもしれないんですけど……正直、僕はあの絵が怖いんですよ」
「怖い?」
「どうしてそう思うのか、自分でもよくわからないんです。ただ、あの絵を見ていると、なんだかすごく不安になるんです。だから、芸術にも興味を持てないっていうか」
素直な芳樹の返答は、魔除けの力だなんだというよりまっとうなものに聞こえた。うまく言語化できていないからこそ、それが彼の本心なのだとわかる。
「変ではありませんよ。実は、私もいまだにムンクの絵画はどれも苦手です」
「ムンクの叫びですよね、さすがに僕でも知ってます。上村さん、ムンクの絵を持ってるんですか?」
「いいえ。一枚くらいは欲しいですが」
「苦手なものでも、ですか」
「ええ、絵画の多くは画家からのメッセージです。そのメッセージに共感できれば、恐ろしい絵画も美しく思える気がして」
「上村さんは強いんですね、普通は無理ですよ」
「画家のメッセージを解きあかすのが、鑑定士の仕事のひとつだと思っているんです」
芳樹は松葉の言葉に何か思うところがあったのか、少し考え込むように目を伏せた。手元では空になったカップをもてあそんでいる。大人びた見た目とは裏腹な子供っぽい仕草に、松葉は彼のことを何も知らないことに気づく。
依頼主にとっての絵画の価値。それを見つけるためには、彼のことをもっと知らなければならないような気がした。
「失礼ですが、プライベートなことをお聞きしても?」
「彼女ならいませんよ」
「絵画を愛してくださる方がタイプなんです」
「それは残念。僕の傷が浅いうちに次の質問へいきましょう」
「お引っ越しはどちらに?」
「東京です。就職を機にひとり暮らしで。うちの家系は代々鎌倉に根をおろしているらしくて……だから、父は僕がひとりでやっていけるのかも心配してるんだと思います。絵画もお守りだと思えって言うくらいですから」
芳樹が何気なく発した言葉から、肖像画が常に家の中で飾られていたのだと松葉は推測する。同時に、どうりで保存状態がいいわけだと納得した。引っ越しで捨てられることもない。受け継がれるにはもってこいの環境だ。
一族に受け継がれてきた肖像画、カルド・ワイズマンの歴史。
――もしかしたら、この絵画の謎を解く鍵は彼ら一族にあるのかもしれない。
松葉の胸に確信にも近い予感がよぎった。




