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絵画鑑定士は謎解きがお好き  作者: 安井優


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5.『ヘビー・サークル』 ワシリー・カンディンスキー

「そこのお嬢さん、すみません」


 銭洗弁財天への急な坂道が見えたところで、松葉の背後から声がかかった。


 振り返れば、車いすの男性がひとり。丁寧に会釈され、松葉もつられて頭をさげる。


「この先の弁財天へ行かれます?」


 松葉がうなずいて見せると、男性はゴソゴソとポケットを探る。出てきたのはビニール袋に入った一万円札だった。


「申しわけない。この体では坂道が登れなくてね、参拝ができないんですよ。いつもは友人に頼むんですが、今日は急用で来られなくなってしまって……参拝を頼みたいんです」


 事情はわかった。だが、いきなり知らない人に一万円札を手渡すなんて不用心すぎやしないだろうか。


 松葉は思わず受け取ってしまったお札と男性を見比べる。


 初老に見えるが、顔つきはまだまだ現役だ。艶のある黒髪もよく手入れされているし、服装や靴、カバンからも品のよさがうかがえる。寛容で穏やかな雰囲気が彼のまなざしによく表れていた。対照的に、厳格さを感じさせるしわが、長い人生の中で何度も苦労を重ねてきた証として眉間や額に刻まれている。総合的に見ても誠実な印象。少なくとも、何かの悪徳商法が絡んでいるわけではなさそうだ。


 松葉が男性を観察していると、彼はあからさまに眉をさげる。あまりにも悲哀めいた笑みだった。


「すみませんね、自分でも怪しがられるだろうと自覚はしているんですよ」


 松葉はあわてて首を横に振った。


 銭洗弁財天に来ているということは、大なり小なり金を必要としているのだろう。松葉も同じ状況なだけに、神頼みしたくなる気持ちは充分に理解できる。


「いえ、そういうわけでは! ちょうど参拝するところでしたし、大丈夫ですよ。ええっと……一応、私の連絡先をお渡ししておきますね。すぐに戻ってきますから、木陰でお休みになられてください」

「おや、わざわざご丁寧にどうも」


 松葉は脇に抱えていたキャンバスバッグを落とさないように気を付けながら、メモ用紙にペンで連絡先を走り書きする。これで何かあっても訴えられることはないだろう。


 松葉は「行ってきます」と坂を登る。


 元々、珠子に言われて訪れただけだ。長居するつもりはない。参拝をすませたら早々に戻ろうと、松葉は歩調をはやめた。


 岩壁にあいた入り口、そこに建てられた鳥居をくぐり、洞窟を抜ける。その先、さらに立ち並ぶ鳥居を抜け、本宮へ。松葉も何度か訪れたことのある道のりだが、いつ来てもここには神秘的な空気が漂っている。


 ロウソクと線香、金を洗うためのザルを購入し、「あとで参拝します」と神さまに謝罪して本宮を通りすぎた。


 銭を洗うための水は奥宮に湧いている。水音と先客の銭を洗う音が聞こえ、松葉はそれを邪魔せぬよう横へ並ぶ。


 キャンバスが濡れてしまわないように石壁へと立てかけて、松葉は珠子から受け取った二枚の五円玉と、先ほどの男性から受け取った一万円札を取り出す。それらをまとめてザルに入れ、丁寧にすすぐ。お札はビニール袋から端だけを出して、破れてしまわぬよう濡らして洗った。


「よし」


 キャンバスを再び脇へ抱えて本宮へと戻り、松葉は洗ったばかりの五円玉を賽銭箱へと放り入れた。金属のぶつかる音がどこか楽しげに聞こえる。


「珠子さんがあんみつを食べられますように。さっきのおじさまのお願いごとが叶いますように。……それから、もうひとつ。もしよかったら、私の鑑定が少しでもうまくいくようにお見守りください」


 たかだか五円玉二枚で、それも他人の五円玉で叶えられるような願いではないかもしれない。だが、松葉は真剣に祈る。神さまへの感謝も忘れない。


 ――この鑑定が無事に終わりますように。


 昨日まで渋っていた鑑定に対する気持ちは、少し前向きになっていた。松葉自身も無意識のうちにあの肖像画の謎には惹かれているのだ。この謎を解いてみたい、と鑑定士のプライドが自らの背を押しているのかもしれない。


 参拝を終えた松葉は、腕時計を確認する。


 男性と別れてからすでに十分が経とうとしていた。


 なんだかんだ時間をかけてしまった。いつもと違い、大きな荷物を抱えているから余計だ。


 松葉は急ぎ足で弁財天を後にする。


 あの男性のことだ、おそらく松葉が参拝に時間をかけようと気にもとめずに待っていてくれるのだろう。だが、だからこそ、そんな人を待たせるのは松葉の良心が痛かった。


「お待たせしました!」


 松葉が坂道をかけおりると、男性は驚いたように松葉へと振り返った。乱れた前髪をなおしながら、肩で息をする松葉。そんな彼女に、男性は申しわけなさそうに体を縮こまらせる。


「そんなに急がなくてもよかったのに、すみませんね」

「いえ、こちらお返しいたします」


 ビニール袋についたままの水滴をハンカチでふき取って差し出せば、男性も「ありがとう」と松葉の連絡先が書かれたメモ用紙を差し出した。


「お時間がよろしければ、お礼にコーヒーでもごちそうさせてください」


 そんな気遣いの言葉とともに。


 男性は大切そうにお札を懐へとしまって、車いすを動かした。電動だ。低いモーターの音とアスファルトの砂利を踏むタイヤの音が混ざる。


 松葉がどうすべきかと迷っていると、男性が振り返る。


「ああ、すみません。お嬢さんを口説いてるわけじゃないんですよ。あなたと同じような年の息子がいるような親父ですから。ただ、純粋にお礼がしたくて」


 それは、どこかで見たことのある笑い方だった。だが、


「最近、すぐ近くに喫茶店ができましてね。若い人たちにも人気のお店なんですよ。どら焼きがおいしくて」


 どら焼き、その言葉に松葉の中で芽生えかけていた小さな違和感はあっという間に霧散してしまう。


 ちょうどお昼どきだ。おなかもすいている。


「それじゃあ……」


 金を洗うと、金が増える。今回に関しては金が増えたわけではないが、タダでおいしいものが食べられるとあって、銭洗弁財天さまのお力を感じずにはいられない。


 松葉はしっかりと頭をさげ、男性に案内されるがまま坂道をくだりきった先にある喫茶店へと向かった。


 やがて、かわいらしい外装の店がすぐ目に飛び込んでくる。


 落ち着いた店内は、平日の昼ということもあって人も少なかった。


 アートや本が飾られている空間は、松葉にとっても居心地がいい。


 松葉は男性と向かいあう形で窓際の席へ座る。コーヒーとどら焼きをふたつ、注文をすませると


「絵画が好きでしてね、このカフェの向かいはギャラリーになっているんです」


 男性が窓ガラス越しに道向かいの家を指さした。


「お嬢さんがお持ちになられているその荷物も、何かの絵ではありませんか?」


 男性の穏やかな瞳が窓の外から松葉の右側へと移動する。キャンバスバッグに包まれてはいるが、わかる人にはわかるものだ。彼の「絵画好き」は本物らしい。


「見た目だけでおわかりになられるなんて、よほどお好きなんですね」

「たまたまそんな気がしただけですがね。わたしも以前、ちょうど同じくらいのサイズの絵を持っていたものですから。お嬢さんは趣味で絵を?」

「いいえ、仕事です。ああ、そうだ! 申し遅れました。私は上村松葉、アトリエで絵画鑑定士をしております」


 松葉が名刺を取り出すと、男性は慣れた手つきでそれを受け取る。


 男性は名刺をじっと見つめ、驚いたような顔を見せた。ただの名刺だというのに。


「何か?」


 松葉が尋ねれば、彼はすぐに首を横に振って笑みを浮かべる。


「ああ、いえ。なんでもありません。すみませんね、休みの日は名刺を持ち歩いていなくて。いや、こんなことなら財布にでも入れておけばよかったな」

「大丈夫ですよ。絵画がお好きとのことですので、ぜひいつでも遊びにいらしてください。もちろん、アトリエを見ていただくだけなら無料ですから」


 なんでもないと言うわりにはいまだしげしげと名刺を見つめる男性に、興味を持ってもらえたのかもしれないと、松葉はここぞとばかりに営業トークを展開する。こうでもしなければ、アトリエに来る客など限られている。せっかくの新規顧客だ。松葉の今後の生活費はこの男性にかかっているかもしれない。


「この住所、もしかして海沿いのところですか」

「ご存じですか?」

「ええ、材木座海岸には息子とよく散歩に行くんです。海を見ながら飯も食えるし」


 ご近所さんだったのか、と松葉は男性をもう一度観察した。先ほどから抱いていた妙な違和感――どこかで会ったことがあるような親しみ――その理由がわかった気がした。ご近所さんであれば、町中で何度かすれ違っていてもおかしくはない。


「上村さんは、今日はお仕事帰りですか」

「ええ、絵画を鑑定するために少し情報収集を」

「へえ、情報収集ですか……。いや、それは興味深い。絵の鑑定といえば、テレビでやっているような、虫メガネで絵を細かくチェックするようなものばかりかと」

「贋作かどうかを鑑定する場合は、そういう手法を取ることもありますよ。ただ、誰が描いたものかもわからないような絵画の鑑定ともなると中々そうもいきませんから」


 男性は「なるほど」と表情いっぱいに関心を示す。彼の真摯な態度が松葉に誇らしさを感じさせた。


 自分の父親もこれくらい芸術を受け入れる度量を持ってくれたらいいのに。そう思わずにはいられない。


「実は、昔、わたしも絵の鑑定をしてもらおうと依頼したことがあるんです」


 男性はふいに切り出した。わずかに持ちあがった口角、遠くを見つめる横顔からは、彼の胸中にうずまいているであろう思いを読み取ることはできなかった。


「売りに出そうと思いましてね。ですが、査定の時点で断られました。わたしも思いれのある絵画だったので、今でこそ売らなくてよかったと思っているんですが」


 男性の思い出と青年の依頼がピタリと重なって、松葉の口から自然と疑問がこぼれる。


「思いれのある絵画を売却目的で鑑定に出すのって、どんな気持ちなんですか」


 男性が目を見張った。瞬時に松葉は自らの失態に気づく。これではまるで男性を責めているようではないか。


 謝ろうと口を開いた瞬間、


「変な話ですよね」


 男性の乾いた笑いに遮られた。


「当時、わたしには金が必要でしてね。自分がこれだけ大切にしてきた絵なんだから高値がつくだろうと思い込んでいたんですよ。それで、断腸の思いで売却を。絵さえ売れば、他のものは手放さずにすむんじゃないかと思っていたんですね」


 男性の表情は、過去の自分に呆れてしまうと言いたげだった。


 やはり、ここでも金か。再び松葉の頭に依頼主がよぎる。不思議な縁を感じずにはいられないが、珍しい話ではないような気もする。悲しいかな、絵画で腹はふくれない。


「失礼なことを聞いてしまって、申しわけありません」


 それでも芸術を愛する男性へ敬意も込めて、先ほどかわされた謝罪を口にする。彼は気にしていないと優しく松葉に応えた。


「大切にしてきた絵に芸術的価値がないと知ったときはさすがに堪えましたが……同時に、思い出を金にかえることはできないのだと気づきました」


 男性の瞳は暖炉の中で薪が弾けるようだった。ほの暗い闇の奥で静かにまたたき燃える熱、畏怖や神聖さをまとった絵画への信奉めいたエネルギーが双眸に宿っている。


 男性がここまで固執する絵画とはどんなものなのか。


「いつか、私もその絵を見てみたいです」


 松葉の本音に、男性は照れくさそうに笑った。


「まあ、結局、絵も売れず、手元からはいろんなものが去っていってしまったんですが」


 謙遜するようなオチがついたところで注文が運ばれてきて、自然と会話が途切れた。


 コーヒーとどら焼き。苦さと優しい甘さが混ざり合った香りが松葉たちの間にふわっと広がる。


 どら焼きに焼き印されたきつねがかわいらしくこちらへと笑いかけているように見える。


 なんだか縁起がいい、と松葉はそのどら焼きを一口ずつゆっくりと味わった。

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