4.『アテナイの学堂』 ラファエロ・サンティ
「いらっしゃい」
やわらかな風合いの木製扉を押し開けた松葉に声がかかる。
青年から依頼を受けた翌日、松葉が向かった先はとある骨董屋だった。
「こんにちは」
松葉が会釈すると、骨董屋店主の片岡珠子が上品な笑みを浮かべた。
黒髪を結いあげ、美しい紫の着物を着こなす彼女は、まるで高級料亭の女将だ。怪しい骨董屋の店主をやっているだなんて、誰が信じるだろうか。
「あら、松葉ちゃんじゃない。今日は鑑定のお仕事?」
松葉の抱えたキャンバスバッグを指さす珠子はどこかうれしそうだった。
骨董屋はいつも閑古鳥が鳴いている。客といえば松葉か、はたまた珠子に思いを寄せる男性陣だけ。その男性陣も今日は仕事らしい。つまるところ、珠子はひとり寂しく店番中だったようだ。
「はい、珠子さんの知識をお借りしたくて」
「相変わらずお仕事熱心なのね」
純粋な目を向ける珠子相手に「金のためだ」とは言えなかった。そんな松葉の心情を見透かすように、珠子はコロコロと鈴の音のような声をあげて笑う。
「いつでも大歓迎よ。ちょうど退屈してたの。アタシが猫ならとっくに死んでいたかもしれないもの」
珠子は切長の目をしなやかに細めた。彼女の自由気ままで、けれど気品あふれる様子は猫のようだと松葉は思う。
「それじゃあ、少しくらいは珠子さんの役に立てるかもしれません」
松葉は机の上に置かれていたタロットカードやランタン、寄木細工の箱をそっと動かして、脇に抱えていたキャンバスバッグを机の上に置いた。
バッグの中から現れた肖像画に、珠子は「ふぅん」と興味深そうな声をあげる。
まじまじと肖像画を観察している珠子を見るに、彼女の期待にはそうことができたようだ。
「なんだか別人が描いたみたいな絵ね。それに、どこかで見たことがあるような……」
「見たことがある?」
珠子は肖像画から顔をあげて、近くの本棚から西洋美術史を一冊抜き取った。彼女がページをめくるたび、ほこりが宙をチラチラと舞う。
「うぅん……思い出せないわ。そもそも、こんなにも違う作風が混ざり合っている作品は見たことがないから、気のせいかしら」
珠子が知っていたら、鑑定士である松葉の面目が立たない。知っていてほしかったという気持ちと、気のせいでよかったという気持ちが混ざり合い、松葉は苦笑する。
「それよりもこの絵、ふたりで一枚の絵を描いたって感じ。ずいぶんと絵のタッチが違うじゃない? 表情はこんなにも繊細なのに、それ以外は荒々しい。珍しいわね」
「おっしゃるとおりです。本当に別人が描いたかどうかまでは定かではありませんが、同じ人物とは思えない筆の運び方ですよね」
珠子の率直な意見に松葉が賛同すれば、珠子は「それで?」と松葉を見る。
「まさか、ひと目でわかるようなことを聞きにきたわけじゃないでしょう? 鑑定士さま」
「からかったわけじゃないですよ」
松葉は断りを入れて、メモ帳を差し出す。本題はここからだ。
「カルド・ワイズマン」
松葉がメモした文字を珠子はじっと見つめた。書かれた文字以上の情報をそこから読み取ろうとしているようだ。
「肖像画に描かれた男性の名前です」
「この絵を描いた画家の名前じゃなくて?」
「おそらく。所有者はモデルを愛するから、絵に描かせるんです。だから、肖像画のタイトルだけが語り継がれてきたんだと思います」
「……なるほど。考えてみればそれもそうね」
珠子は納得した、とうなずいて見せた。
「それで、松葉ちゃんはこのカルド・ワイズマンが何者か、アタシに聞きにきたってことかしら」
珠子は流れるように松葉の赤みがかった髪をすくう。肩下でゆるくウェーブした髪を指先でもてあそぶ彼女の妖艶な仕草には、同性の松葉でさえ恋に落ちてしまいそうだった。
「さすがは珠子さんです」
松葉が降参の意を込めて両手をあげる。珠子はそんな松葉の様子に満足そうな笑みを浮かべ、髪に絡めていた指をほどいた。
自然と珠子から離れるように姿勢を正した松葉の前に、珠子と机ひとつ分はさんだ適切な距離が現れる。どうやら、松葉のほうが夢中になって絵画へ近づいていたらしい。
珠子はしばらく肖像画を見つめて「そうねえ」と呟く。
「カルド・ワイズマン……聞きなれない名前だわ。少なくとも、日本の伝記や伝承には登場しない人物だと思う。カルドはイタリア語かスペイン語かしら。ワイズマンは英語ね」
「カルドってどんな意味なんですか?」
「熱いとか煮汁とか、そんな意味だったはずよ。だから、カルド・ワイズマンは、直訳すればブイヨン賢者ってところね」
「ブイヨン賢者……」
珠子は日本屈指の名門校、帝都大学出身の西洋史学者である。彼女を知る人たちの間では、日本を裏で牛耳っているとかいないとか、そんな噂が流れるほどの知識と人脈を持つ情報通だ。松葉にはもったいないほどすぐれた知り合いのひとり。そんな彼女が「ブイヨン賢者」なんて言葉を口にするとは思わなかった。
「有名な人、というわけではなさそうですね」
「アタシの知識不足でなければ、ね」
松葉はふいに、これほどの知識人に非科学的な話をするとどんな反応が返ってくるのだろうかと気になった。
「珠子さん、実は……」
ためるような松葉の口調に、珠子は穏やかな視線で続きを促す。
「この絵画には、魔除けの力があるそうなんです」
「魔除け?」
突拍子もない情報だったはずなのに、珠子はますます興味深いと言わんばかりに絵を凝視する。
「それは面白いわね」
どこかの教授と違って本心のようだ。だが、聞いた本人である松葉は、珠子の態度に驚きを隠せなかった。
「珠子さんは本当だと思うんですか?」
「今はなんとも言えないわ。でも、そういう力は、古くから続く伝承には必ず登場するものだもの。つまり、この絵は少なくともそれだけ昔から存在したものだってことでしょう」
珠子の骨董屋らしい観点に松葉はハッと顔をあげた。
「そっか!」
骨董屋の柱時計が松葉の喜色あふれる声に相槌をうつ。
本当にこの絵に魔除けの力があるかどうか。いつの間にか、その真偽を確かめようとしてしまっていた。だが、そんなことを考える必要はないのだ。誰が、いつ、何のためにこの絵画を描いたか。それがわかれば、なぜ「魔除けの絵画」として受け継がれてきたのか、自ずと導き出せるかもしれない。
「珠子さんの言うとおりです! しかも、この絵画は魔除けだから……なにか悪いことを魔って呼んでいた時代のものである可能性が高いですよね⁉」
「それじゃあ……」
珠子は少し考える素振りを見せたあと、
「真っ先に思い浮かぶのは、魔女狩りの時代ね。ぴったりでしょう? 魔を操る悪しき者。そういった者を遠ざけるために描かれた絵かもしれないわ」
と知識を披露する。珠子の説明に、松葉も「なるほど!」と手を合わせた。
「そうかもしれません。神さまを絵に描いて崇拝したのと同じように、当時、力を持っていた神のような存在を描いたとすればありえない話じゃないかも」
「そうね。エクソシストや教会関係者かも。魔女狩りって特にヨーロッパで見られた現象なの。芸術との関わりも深い地域よね。そこで魔女狩りを取り仕切っていた人をたたえるために肖像画を描いたって説は悪くないと思う」
珠子は言いながらカルド・ワイズマンの服装を指す。
「その時代に、肩にフリルがついた修道服があったとは考えにくいけどね」
冗談めかしていう彼女も、松葉同様、男の奇抜な服装は気になっていたようだ。
「ちなみに、魔女狩りって何年の話ですか?」
「最盛期は十六世紀後半から十七世紀ね。実際には第二次世界大戦のときも……いいえ、今もどこかで行われているでしょうけれど」
「十六世紀後半から十七世紀……」
美術に興味がある人間なら一度くらいは意識する年代だ。美術史が苦手な松葉でさえ、その年代には馴染みがある。
珠子も気づいたのだろう。手にしていた西洋美術史のページをめくり、やがて、目的のものを見つけて手を止めた。
「ちょうどバロック時代ね」
「美術史の中でも特にはずせない時代です。あ、そうだ! 珠子さん、さっきカルドがイタリア語だって言いましたよね?」
「ええ、バロックと関係が?」
「バロックの概念はイタリアから始まったと言われているんです。偶然かもしれませんが、魔除けの絵画は魔女狩りの時代と場所によくマッチします!」
松葉はバロック時代の絵画をいくつか頭の中に思い浮かべて、もう一度肖像画を見つめる。
レンブラント、カラヴァッジオ、ベラスケス……。有名なバロック時代の画家たち。
彼らが生み出したバロック時代特有の強い明暗、芝居がかったような大仰な描写、一瞬に込められた情熱。
松葉は画家や技法を目の前の絵画と照合していく。
「考えてみれば、この肖像画もバロック時代の雰囲気を残しているような気が……。表情は細かく描かれていますが、それ以外の筆づかいは荒々しい。表情を見せるための強調表現なのかも。それに、色のコントラストもすごく明暗が意識されて……」
この肖像画を描いた人物がプロの画家でなかったとしたら。技法をきちんと学べなかったか、または学んだものを表現することができなかったのだとしたら。
バロック時代の感性のみがいびつな形で残ったと考えることもできるのではないか。
バロックの特徴にぴったり合致するとは言えないが、可能性として考えるには悪くない。
「珠子さん! 調べものを頼んでもいいですか?」
「さすが鑑定士さま、何かわかったのね」
「十六世紀後半から十七世紀にかけて、イタリアの魔女狩りに関係する資料をお願いしたいんです。特に、魔女狩りに関わった人の名前がわかるような歴史的資料があればうれしいんですが」
都合よく見つかるとは限らないが、もしかしたら、カルド・ワイズマン本人に関する手がかりが見つかるかもしれない。肖像画の男を見つけることができれば、肖像画を描いた人物を特定する糸口にもなる。
「アタシ、おいしい白玉フルーツクリームあんみつが食べたいわ」
「もちろんです」
「くずきりと白玉きな粉、コーヒーも追加でつけていいかしら」
松葉が「う」と眉根を寄せれば、珠子は西洋美術史を閉じて立ちあがる。松葉の肩に手を置いたかと思うと
「特別よ」
珠子の妙に艶のある声が松葉の脊髄を駆け抜けた。
「その中にカルド・ワイズマンの名前があるかも調べてあげる。だから、ね? お・ね・が・い」
「~~~~っ! わかりました! わかりましたから!」
松葉はあわてて珠子から距離を取る。珠子はコロコロと笑いながら、何事もなかったかのように本を棚へと戻した。
「それじゃあ、わかったら連絡するわね」
背中越しでも珠子の表情がわかる。松葉は彼女の背に若干の恨みがましい視線を送りつつ、これで鑑定が少しでも楽になるのなら安いものかと観念した。少なくとも、自分で調べる何倍も効率的で確実だ。むしろ、バロック時代の絵画である可能性が高いとわかっただけでも大きな収穫。珠子さまさまである。
「松葉ちゃん、アタシじゃなくて弁財天さまを拝んだほうがいいわよ」
振り返った珠子は照れくさそうにはにかんだ。
銭洗弁財天で金を洗うと金が増える。鎌倉ではよく聞く話だ。
だが、松葉には今その余裕さえない。さすがに洗った金でもやしを買うわけにはいかない。
「今月は洗うお金も惜しいんです」
松葉がキャンバスをバッグにしまいこむと、「それじゃあ」と珠子が財布を取り出す。
「松葉ちゃんにご縁がありますように。洗ったお金で参拝してちょうだいね、アタシの分までしっかり頼んだわよ」
珠子は松葉の手に五円玉を二枚握らせた。
「いいんですか?」
「これくらいはね。そもそも、松葉ちゃんの鑑定がうまくいかなくちゃ、白玉フルーツクリームあんみつどころじゃないでしょう?」
珠子の優しい気遣いが松葉の背中を押してくれるようだった。
「ありがとうございます!」
――協力してくれる珠子さんのためにも、この肖像画の謎を解かなくちゃ。
松葉は決意新たにキャンバスをしっかりと脇に抱え、骨董屋を後にした。




