33.『印象・日の出』 クロード・モネ
「……大丈夫」
松葉は、何年ぶりか、実家の扉に手をかけた。
魔除けの絵画、その鑑定を終えて三日。日曜日の午後、空は驚くほど晴れ渡っており、春の訪れを予感させる。
松葉はゆっくりと扉を開ける。
久しぶりの実家。母が亡くなってから、松葉が出ていってから、もう何年も経っているのに少しも変わっていない。
玄関を入って目の前の壁に飾られた母の絵。やわらかな色彩が余計に松葉の胸を刺した。
泣きたくなるような繊細で美しい絵画に、松葉は思わず足を止めてしまう。
毎日、仕事から帰ってきてひとり、必ずこの絵が目に入る。
父が母に固執してしまう理由がわかるような気がした。
松葉だって、本当はそれが怖くて逃げたようなものだ。母の匂いが残るこの家は、あまりにも心を脆くさせる。
「ただいまぐらい言えないのか」
リビングから父の声が聞こえた。
松葉は、ハッと我に戻って「ただいま」と呟く。
つい反射的に不愛想な挨拶になってしまったが、普段なら無視しているところだ。それに比べれば返事をしただけ数倍マシだろう。
アトリエからバスで一本。大した距離ではないのに帰ってこなかった家。家族三人ならちょうどいい広さ。ここに、父がひとりで住んでいる。
そう思うと不意に胸がツンと痛くなった。
母の絵を直視してしまったからだろうか。それとも、覚悟を決めてやってきたからか。
今日の松葉は、自分が父に似ているといつもより自覚せざるをえない。頑固で、不器用で、母が大好きだった。
やっぱり親子ね、なんて、記憶にはほとんどないはずの母の声まで聞こえてくるようだ。
そっとリビングをのぞけば、仏頂面で父がチラとこちらへ目をやる。
「……おかえり」
その視線はすぐに広げられていた新聞へと戻された。
いつもの松葉なら会話もせずに自分の部屋へと引きこもるだろう。だが、今日の松葉は違う。
父と向き合うために戻ってきたのだ。ここで逃げてはいけない。
松葉は荷物をリビングの脇へおろして父の前に座る。
しばらくの無言が続く。気まずい沈黙。父は新聞から顔をあげることはしなかった。
どう切り出そうか、と松葉が悩んでいると、
「絵は、どうしたんだ」
もごもごと父から話を切り出された。
「友人の絵を返せ」と散々松葉につめ寄ったから、聞かずにはいられないのだろうか。
松葉はゆっくりと息を吸って、自らの鼓動を整える。気持ちと背筋を一緒にただす。
「鑑定ならもう終わったよ。絵はちゃんと依頼主に返した。私が買い取るよりも、依頼主の人が持ってたほうがいい絵だから」
「ふん。最初からそうすればよかったんだ。結局、鑑定だってうまくいかなかったんじゃないか。お前が買い取らなかったのは、価値がわからなかったからだろう」
新聞越しの嫌味。だが、今はそれも弱々しい。父の虚勢だ。芸術という、父にかけられた呪いを追い払うための小さな意地だ。
松葉はいらだちをこらえ、まっすぐ父を見据えた。
「お父さん」
目はそらさない。
「本当にそう思ってるなら、ちゃんと私を見て言えば」
父は新聞をバサリと広げなおして押し黙る。松葉のことを少しでも見ればいいのに、気まずいのか、それとも別の感情が湧くのか、決して視線を合わせようとはしない。
「お父さんが、私をお母さんと同じ道に進ませたくないのはわかる。でも、私はお母さんとは違うの」
返事がなくても関係ない。抱え続けてきた思いを伝えるために、今ここにいる。
「ちゃんと私を見て」
松葉はきっぱりと言い切った。
それは子供じみていて、笑ってしまいそうになるほどわがままな言葉。
けれど、伝えなくてはいけない。
「私は、お父さんの娘で、鑑定士の、上村松葉なの」
松葉と父は、それぞれ孤独に戦ってきたのだ。母を失った悲しみにおぼれてしまわないように。
今度は、ふたりで戦おう。
母がいなくなってしまった、その現実と。
松葉がじっと父の返答を待てば、やがて父は新聞をたたんだ。松葉の粘り強さに負けたのか、気まずそうに松葉へと視線を送る。
「……鑑定は、どうだったんだ」
「うまくいったよ。結局、最後までわからないこともあったし、お父さんの言うとおり、あの絵の価値が完璧にわかったとは言えない。でも、私なりにベストは尽くしたつもり」
「仕事は、楽しいか」
「すごくね。あの絵を鑑定して、やっとわかった。絵画の可能性も、鑑定士の仕事がどれほど誇らしいものかも」
全部本音だ。今までも鑑定士として仕事をしてきたが、今回ようやく実感した。絵画の価値を見出すことで、新たな何かが生まれる。それこそが、鑑定士の仕事だと。
おそらく父は、今まで松葉がなんとなく鑑定士を続けてきたことを見抜いていたのだろう。父は松葉の姿に目を伏せた。
「そうか」
ただひと言、父は相槌をうつにとどめる。
しばらく何かを考えこんだあと、父は立ちあがった。そのままテレビ台の方へと歩いていくと、彼は伏せられた写真立てを手に取る。
母と、父と、幼い松葉。最初で最後の家族写真だ。
「……穂仲、松葉は鑑定士になったぞ」
松葉に顔をよせる赤髪の女性。松葉の母であり、父の妻。上村穂仲は楽しそうに目を細めている。
父は写真立てをテレビ台の上に戻す。今度は伏せずに、きちんと立てて。
「……悪かったな」
かすれた声が聞こえる。背を向けていて、表情はわからない。だが、父はたしかに改心したらしかった。
「情けないところを見せた」
父はポツリと言葉をこぼす。到底松葉に顔を見せることはできないのだろう。背は向けたままだ。今にも消え入りそうな声だけが、松葉に向けられている。
だが、それでよかった。松葉には、それだけで充分だった。
「ただ……父さんは、もうこれ以上、大切なものを失いたくなかったんだ」
父がようやくゆっくりと振り返る。松葉も知らない、泣きそうな父の顔。
母のことをどれほど愛していたのだろう。
いや、それだけじゃない。
松葉も、自分がどれほどまでに愛されてきたのか、簡単に実感できてしまうほど、父の顔には海のように深い思いだけが刻まれていた。
父は不器用ゆえに、少し間違っただけだ。これまでの父の言動を許せるかどうかはわからないが、それさえも愛ゆえのことだったのだと自然に受け止められる程度には、切実な表情だった。
「すまなかった」
父は小さく頭をさげる。唇を噛みしめて震えるさまは痛々しい。できればもう二度と見たくない父の姿だ。
そのためにも、これからは互いに向き合わなくては。
「私も、ごめんね」
松葉も素直に謝罪の言葉を口にした。
「お父さんが、お母さんのことをずっと思ってるって知ってて、それでも芸術の道に進んだり、当てつけみたいにこんな髪にしたり……」
苦笑まじりに父が気にしているであろうことをいくつかあげれば、父も困ったように眉をさげた。
「母さんと同じ髪形も、似合ってるんじゃないか」
父はくしゃくしゃと自らの頭をかいて「ただなあ」と付け加える。
「人前に出る商売だろう。その、なんだ……今どきはうるさくないのかもしれんが……、その、母さんと一緒じゃなくてもいいんじゃないか。松葉らしくあれば」
しどろもどろな父の思いに、松葉は思わずふっと息を漏らす。
「ちゃんと私を見て」と言った手前、母と同じ髪形というのも説得力がない。
「たしかに、お父さんの言うとおりかも」
赤髪も気に入っていたが、そろそろ飽きてきたころだ。黒に戻してもいいかもしれない。今は鎖骨でゆるくウェーブさせているが、毎朝巻くのも結構面倒くさいのだ。一度ばっさり切ってしまおうか。年齢的にも、そろそろ大人の女性の仲間入りだ。
「お父さん」
「ん……」
「今までごめんね。それから、ずっとひとりで育ててきてくれてありがとう。これからも鑑定士の上村松葉をよろしくね」
松葉がにっと笑うと、父は目頭を押さえて再び松葉から背を向ける。しばらくの沈黙のあと、
「……ああ、よろしく」
と返事をした父の声が震えていることには気づかないふりをした。
父がようやく見せた笑みを絵画にすることができたなら、それはもう価値もつけられないほどに美しい絵画になったに違いなかった。
松葉は年柄にもなく、父の胸に飛び込む。
母の分まで、強く、つよく、父の体にすがりついた。
父のくたびれたセーターからは、春のひだまりの匂いがした。




