32.『カルド・ワイズマンの肖像』 作者不明
父の話を聞き終えた芳樹は、そっとカルド・ワイズマンの肖像を手に取った。今までは直視しようとすらしていなかった絵をまじまじと見つめている。
新たなスタートの可能性。
父から贈られた絵画の意味を噛みしめているのだろう。
「父さんはこの絵の意味を知ってたの」
芳樹の問いに、重雄は「いいや」と首を横に振った。
「すごい偶然があるものだね。だから、わたしは絵が好きなんだ。そこに込められた思いや意味を、どうとでも、いくらでも感じ取れるだろう」
芳樹は軽い笑い声を漏らす。重雄と同じ笑い方だった。
「上村さんとおんなじようなこと言ってる。絵が好きな人って、みんなこうなの」
「いろんな楽しみ方があるさ。絵の世界は奥が深くてね。だが、芳樹がわからなくても、それでいいんだ。お前は、わたしに遠慮せず、お前の道を歩めばいい」
重雄は芳樹を見つめた。慈愛にあふれた瞳はまさに子を見守る親のそれである。
芳樹はそんな父の視線には気づかず、ただ肖像画を凝視していた。何か考え込んでいるような面持ちだった。
「わたしからの鑑定結果も以上になります。お話したとおり、この絵は芳樹さんが持っていてこそ価値があると思うので、こちらで買い取るつもりはありません。ですが、決めるのは芳樹さんですから」
松葉がキリのいいところで手をうつと、芳樹がようやく顔をあげる。少し戸惑うような表情だった。
「上村さん、ちょっとよろしいですか」
隣から重雄が口をはさむ。松葉が「どうぞ」と促せば、重雄は絵画の隣に置かれていた下絵を指さした。
「下絵の……本来の絵の状態に修復していただくことは可能でしょうか」
「え?」
重雄の提案に驚きの声をあげたのは芳樹だ。
「わたしも、この絵のことは芳樹の判断に任せるつもりです。ですが、そもそも選択肢を知らなければ選ぶこともできないでしょう?」
父なりの配慮に松葉は深くうなずく。
この絵の価値を考えれば、下絵の状態に絵画を修復するほうが妥当だ。金はかかるが、捨てるよりはマシ。飾るにもよい絵だろう。
「この子は、この絵があまり好きでないようだ。だが、下絵は美しい。もしも、芳樹が下絵のほうを気に入ったなら、修復も視野に入れるべきかと」
芳樹はじっくりと考え込むように口元へ手を当てた。肖像画と下絵が印刷された紙を交互に見比べる。
波が何度か寄せ、何度か引いたころ。
「……いえ」
芳樹は口元にわずかな笑みを浮かべて肖像画を持ちあげた。
「このままで、持って帰ることにします」
手元まで絵画を引き寄せると、肖像画をそっと指でなぞる。少し震える指先で、彼は丁寧に絵画を愛でた。
芳樹の笑みに、松葉もつられて笑みを浮かべる。
「本当の意味を知れば、好きになれるかもしれない。以前、上村さんがおっしゃっていたとおりですね。引っ越し先でも飾ります」
「修復はいいのか? こっちの下絵のほうが綺麗な絵だぞ」
「別にいいよ。父さんが僕にくれたのは、この絵なんだし」
芳樹が「これがいい」と呟けば、重雄の目にはじわりと涙が浮かぶ。こぼれる寸前、重雄は天井を見上げた。
「お前がそれでいいなら、それでいいさ」
穏やかな声だった。
「それから、勝手に父さんの大事な絵を売却しようとしてごめん。父さんの療養費は、俺も働いて一緒に稼ぐからさ……新たな可能性のスタートは、ちゃんと生きて応援しててよ」
芳樹が重雄の手を握る。
「せっかく泣かないようにこらえてたんだから察してくれよ」
声をあげて笑う重雄の頬には、ひとすじの涙が輝いた。
海から照り返す光が、アトリエの窓いっぱいに差し込む。
カルド・ワイズマンの肖像は、親子に向かって複雑な表情を投げかけている。その顔は、ふたりをからかっているように見えた。
芳樹は憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で、松葉へと頭をさげる。
「上村さんに、鑑定を頼んでよかったです」
以前、鑑定もまだ始まっていない段階で聞いた言葉だが、そのときとは比にならない言葉の重み。
重雄も同じく、隣で丁寧にお辞儀した。依頼主よりも深い礼に、この絵画への思いと、何よりも息子への思いがあふれている。
「息子のことも、それから、絵画のことも、本当にありがとうございました。わたしも、絵画の価値を知ることができてよかった」
「おふたりとも顔をあげてください!」
芳樹から依頼を受けたときを思い出す。あのとき、芳樹は頑なに頭をあげようとはしなかった。どうやら父親譲りだったようだ。
松葉があわててふたりを促せば、ふたり揃って同じ速度で顔をあげ、同じ表情を見せた。清々しい笑みからは何の未練も感じない。
――きっと、この鑑定を忘れることはない。
内心に湧きあがる予感に、松葉の口角も自然と持ちあがる。
「私も、貴重な経験をさせていただきました。勉強になることも多かったですし、この肖像画と出会うことができてよかったです。こちらこそ、本当にありがとうございます」
「上村さんも、お父さんと仲直りできるといいですね」
「そうですよ。上村さんこそ、僕にばっかり仲直りしろとか言ってないで、ちゃんとお父さんと話し合ってくださいね。これだけすごい鑑定ができるんですから大丈夫です!」
重雄と芳樹、それぞれからいただいた励ましも今なら素直に受け止められる。松葉もふたりからたくさんの勇気をもらった。
「はい! ありがとうございます」
鑑定士としての自信や誇り、父と亡き母への敬愛を忘れなければ、必ず仲は修復できる。絵画のように完璧にとはいかなくても。どんなに辛いことがあっても。
鑑定料の支払いをすませた芳樹は重雄の車いすを押して、「それじゃあ」と脇に肖像画を抱えた。
アトリエの目の前に広がる海岸線。ふたりがよく散歩に来ると言っていた材木座海岸だ。
慣れた足取りで、ふたりは海沿いの道を行く。
「またのご来店をお待ちしております!」
どこまでも澄み切った空と広がる海の青に目を細め、松葉はふたりに大きく手を振った。




