31.『海辺の母子像』 パブロ・ピカソ
「重雄さまも芳樹さまも、お話できていないことがあるのでは?」
松葉がふたりを交互に見比べる。顔を見合わせていた親子はそろって目を見開いた。
血の繋がりはない。しかし、表情や仕草はそっくりだ。顔まで似ているような気がするほど。
乾いた重雄の笑い声が潮騒に混ざって消えていった。
「全部お見通しですか」
どこか諦めたような弱々しい笑みを浮かべ、重雄は窓の向こうへと視線を投げる。
「金が必要になって、絵画を売りに出すところまで親子そろって一緒とは」
「……親子じゃないだろ」
絞り出すような小さい芳樹の声だけはやけにクリアに聞こえた。
「親子だよ、お前はわたしの息子だ」
間髪入れず答えた穏やかな重雄の声にも、先ほどと変わって波の音をかき消す力強さが宿る。
「だったらなんで……」
芳樹が立ちあがる。車いすに座った重雄は冷静に息子を見上げた。
「なんで、何も相談してくれないんだよ! 養子のことも、借金のことも、病気のことも!」
「そうか、知っていたか」
重雄は取りつくろうこともせず、静かにうなずいた。そのことが芳樹の怒りを助長させたのか、彼はあからさまに父を睨みつける。
「僕に家業を継げって言わなかったのだって、僕が本当の息子じゃないからだろ⁉ それにこの絵だって! 僕が絵に興味がないって知ってて、いやがらせかよ!」
今にも食ってかかりそうな勢いだったが、握った拳を震わせる彼は捨てられた子犬のようにも見えた。本人は怒っているつもりなのだろう。だが、その顔は悲壮と寂寞にあふれている。
「そうじゃない」
「だったら何なんだよ!」
「息子だと思ってなかったら、先祖代々受け継いできた絵をお前に譲ったりはしない」
「……っ!」
「お前はお前の道を歩けばいいんだ。わたしがしてやれることは、もう多くない」
芳樹は黙り込んだまま、重雄の言葉に耳を傾けている。
「わたしが病気だと知ってるんだろう。それなら、わたしが長くないことも知ってるんじゃないか? 借金のことも知っているなら、跡を継げと言わない理由もわかるはずだ。お前は賢い子だから」
重雄はまっすぐに芳樹を見つめる。泣きそうな息子の顔を心に焼き付けるように。
「そんな顔をさせたくなかった。だから、言わなかったんだ。わたしはお前の足かせになりたくない」
「父さんは足かせなんかじゃない!」
「でも、この絵を売ろうと思ったのも、金のためだろう? 大方、わたしの治療費にでも当てようとしたんじゃないのか」
重雄はそっと手を伸ばし、芳樹の震える手を握る。
「お前には小さいころから本当に迷惑をかけた。だからこれ以上、お前には悲しい思いをさせたくなかったんだ。子供に重荷を背負わせる親がどこにいる」
「でも……僕は……」
パタリ。芳樹の瞳からあふれた涙が、重雄の手に落ちる。
「重い荷物ならなおさら、父さんと一緒に背負いたかったんだ」
窓から吹き込んだ風は潮の匂いがした。
「全部、ちゃんと教えてよ。僕はもう、子供じゃないんだからさ……」
波のように揺らぐ声は彼の本音であふれた。強く握り返された手に、どれほどの思いがこもっているのか。松葉には想像しかできないけれど。
「すまなかった」
重雄が深く頭をさげる。ゆっくりと丁寧に。
「そんな風に、芳樹が考えていたとは知らなかった。わたしは、お前を子供扱いしすぎていたのかもしれないな」
「……ほんとだよ。僕だって来月から社会人なんだよ」
芳樹のふてくされた表情に、重雄はやわらかな笑みを浮かべる。いくら年を取ろうと、親からすれば子供はずっと子供のままだ。
「お前には、辛い話も多いだろうが……それでも、本当に聞きたいか?」
「まだほかにも隠してんのかよ」
「そういうわけじゃないさ。でも、話していないことばかりだろう。どうして、お前が養子なのか。借金のことも、病気のことも。わたしが、この絵画をお前に譲った理由も」
重雄の真剣な表情に、芳樹は空いた手で泣きはらした目をこすってうなずく。
芳樹が再びソファに腰かけると、重雄はゆっくりと口を開いた。
「妻と結婚した直後のことだ。輸入雑貨事業をやめ、オーダーメイド家具の販売を始めたわたしは、とにかく仕事を軌道に乗せることで頭がいっぱいだった。妻のことは、ほとんどかまってやれなかった」
重雄は、それからのことを語る。鮮明に。
寂しさを抱えた妻は浮気、見知らぬ男との間に芳樹を授かった。しかし浮気相手の男は育児をするつもりなどなかった。妻もまた、男にほれ込んでおり、芳樹を育児放棄した。
「だからわたしは、お前を引き取った。愛した妻の子だ。血は繋がっていなくても、お前とは親子になれると信じていた。妻とは離婚してしまったがね」
そのあと、妻と男がどうなったのかは重雄も知らないようだった。
意気込んで始めた事業も簡単にはうまくいかなかった。働けど働けど、借金が増える一方。芳樹を育てるにも金がかかる。
重雄はいよいよ家財道具にも手をつけなければ資金繰りが厳しいと悟った。
彼が思いついたのは、父から形見として譲り受けた絵画の売却だった。思いれのある絵画は、何よりも価値のあるものに思えた。
「だが、鑑定依頼は断られ……その帰り道、わたしたちは事故にあった」
芳樹が息を飲む。
松葉は以前、重雄が話していたことを思い出した。絵画は売れず、手元からいろんなものが去っていった、と。たしか、そう言っていた。
「わたしたちの車にトラックが突っ込んできたんだ」
重雄は当時のことを思い出していたのか、震える声で呟いた。
「わたしはそれでこの体に。だが、芳樹はこの絵に守られた。ちょうど座席と天井の間に絵がはさまってね、盾のようにお前の体を覆ったんだ」
芳樹がハッと目を見開いた。
彼は、この絵を怖いと言っていたはず。絵画に恐怖を抱いていたのは、その事故のことを無意識に体が思い出すから。事故の記憶は曖昧なはずだが、体に刻み込まれた防衛本能が、芳樹に恐怖を植え付けたのだろう。
松葉も納得する。肖像画の一角にあったへこみ。最初に見つけたその特徴は、事故の衝撃でできたものだったのか。
「わたしは、救急車の中で、この絵が魔除けの絵だと父から言われたことを思い出した。息子を守ってくれる絵を売ろうだなんて、バチがあたったんだと」
だから、自らも魔除けの力を信じた。そして、必ず自らも息子にこの絵画を譲ろうと心に決めた。この絵は、息子を守ってくれる。奇跡の絵画だ。
重荷だと言った重雄の言葉に偽りはなく、まったくの他人である松葉でさえどう反応すべきか迷うほどの壮絶な過去。芳樹は複雑な面持ちでそれを聞いていた。
それからの借金返済のことや、現在の病気のこと、すべてを語り終え、重雄はようやくコーヒーへと手を伸ばす。
すでに冷めきっているであろうそれを飲み干した彼は、どこか清々しい顔をしていた。




