3.『ケクロプスの娘たちに発見されたエリクトニオス』 ピーテル・パウル・ルーベンス
「絵画に魔除けの力? 君は現実主義者やと思っとったんやけどなあ。なんか悪いもんでも食べたんか? ああ、それとも、魔除けの力とやらにやられたんか」
「……ですよねえ」
声の穏やかさと裏腹な皮肉たっぷりのセリフ。在学中から変わらぬ大学教授の態度に松葉は乾いた笑みをひとつ。だから頼みたくなかったのに、とは口が裂けても言えなかった。
仕事だからと意識を切りかえて、前向きな気持ちで鑑定を――そう決心した松葉の行動は早かった。
アトリエで本格的な鑑定はできない。鑑定に必要な道具と場所を借りるために、世話になっている大学教授へと電話をかけたのが数十分ほど前のこと。
松葉自身も腑に落ちない説明をしながらも、教授の説得を試みている。
「君も人気もんやなあ。俺より忙しそうやん」
「ありがたいことに。ですから、お手伝いいただけませんか」
松葉は教授の嫌味に顔をしかめる。電話相手は鼻で笑っただけだった。
こうして厄介な依頼内容を聞いてくれているだけでも賛辞に値する。悔しいが、今松葉が頼れるのは教授だけだ。途中で電話を切られなかっただけマシ。
松葉は自らに言い聞かせて、何度目かの懇願をする。もちろん、受話器越しでも頭をさげる。こういう態度は声に出るのだと、昔、店主から教わった。
「私も本当に魔除けの力があるとは思ってません。でも、鑑定の依頼を引き受けた以上は、この絵にどんな価値があるのか、鑑定士として調べる必要がありますから」
本当は金のためだ。けれど、鑑定士としてのプライドまで捨てたつもりはない。この絵の価値を見出せるのは、現状松葉だけなのだ。
松葉が必死に頼み込むと、
「……はあ」
教授の呆れたようなため息が聞こえた。
「ほんま、君はおもろい仕事を引き受けてくるのが得意やなあ」
「おもしろいと思ってくださるなら、ご協力をお願いしたいのですが」
皮肉に皮肉で返すと、電話越しに軽い笑い声が響く。どうやら今度はお気に召したらしい。
「君はいつ京都に戻ってくるんや」
本気と冗談を半分ずつ混ぜ込んだ教授の口調から協力的な姿勢が感じられた。なんだかんだこうしていつも協力してくれるからこそ、松葉はつい教授を頼ってしまう。
「私の実家は鎌倉ですよ。他の仕事を片付けてから行きますから、そちらにお伺いできるのは早くても三日後になるかと」
「じゃあ、三日後の夕方に出町柳駅で。日本酒のうまい店があんねん」
それはつまり、協力してやるから奢れという意味だろうか。下手に藪をつついては蛇が出る。松葉は「日本酒のうまい店」なる単語には触れぬよう相槌をうつにとどめた。
「ああ、それから。いつもの土産も楽しみにしてるで」
「は?」
気の抜けた返事が松葉の口からこぼれ落ちる。そのせいで拒否する間もなく電話を切られてしまった。
「なんなのよ、もう……」
「おや、断られたのかい?」
受話器を置いてうなだれる松葉に、アトリエへ戻ってきていた店主が物珍しそうな目を向けた。電話の相手が教授であることを店主は見透かしているようだった。
「いえ、引き受けてくださりましたが……」
「何か問題かな?」
「土産を持ってこいと」
松葉が盛大なため息をつけば、店主は楽しげに笑う。
「毎回手土産ひとつで協力してくれるんだから、彼も相変わらず君には甘いねえ」
「え? アトリエから協力金を渡しているんじゃないんですか?」
「それは誰から聞いたんだい?」
「教授です。協力金をもらってるから手伝ってやってるんだって、毎回嫌味ったらしく」
教授は店主の元教え子である。教授が学生のころ、芸術大学で教鞭をとっていたのが店主なのだそうだ。その伝手もあって、教授の教え子である松葉はこのアトリエに就職することができた。だから、教授と店主は松葉よりも旧知の仲で……彼が依頼に協力してくれるのもそういう縁と金の力なのだと思っていた。
松葉が訝しむと、店主はやわらかに目を細める。
「ほお……なるほど、なるほど」
「何がなるほどなんですか?」
「いや、言われてみれば心当たりがあってね。あげたつもりはないんだけど、金に勝るものを毎回貸しているな、と」
「えっ? もしかして貴重な絵画とか?」
「貴重な絵画か、うん、あながち間違ってないねえ。でも残念。絵画のように絵になり、絵画よりも美しく、絵画よりも豊かで色鮮やかなものだよ」
「なんですか、それ。なぞなぞなんてもったいぶらないで教えてくださいよ」
まだ肖像画の謎をひとつも解けていないというのに、店主から追加の謎を提示されるとは。松葉は唇を尖らせる。彼女の子供っぽい仕草に、店主はニコニコと笑うだけ。
「彼も忙しい中協力してくれるんだろう。土産のひとつくらい持って行ってあげなさい。土産代は店の経費として請求してくれてかまわないから」
店主は「彼も大変だねえ」と、松葉の肩をたたく。
「大変なのは私なんですけど」
着替えをつめたスーツケースを片手に、自らの上半身と同程度の大きさがあるキャンバスを持って京都まで向かわねばならない。そこに土産――教授お気に入りの鎌倉ビールと長芋のわさび漬け、くるみ菓子――である。
今から三日後を想像して足取りが重くなる。
だが、ひとまず絵画の鑑定については協力がもらえたのだから、松葉にも相応の準備が必要だ。少なくとも、現時点で不足している最低限の情報を補う努力はしなければならない。
松葉が知る限り、この状況で絵画の謎が解けそうな心当たりはひとつだけ。
「明日は少し外をまわってきます」
「おや、鑑定する気になったのかい?」
「仕事ですから」
これ以上は悩んでいても仕方がない。
肖像画をキャンバスバッグへとしまいこんだ松葉は、まじないのように「これも生活費のため」と何度か呟いて、なんとか自らを奮い立たせた。




