29.『ゆりかご』 ベルト・モリゾ
芳樹にショートメッセージを入れて二日。
「ご無沙汰しております、上村さん」
芳樹とともにアトリエへ現れた車いすの男に、松葉は驚いた。
銭洗弁財天で出会い、一緒にコーヒーを飲んだ男性。彼こそが芳樹の父だったとは。
「親父と会ったことがあるんですか」
父から少し離れたところに立ち、どこか気まずそうな芳樹は、松葉へと猜疑の目を向けている。芳樹の目には松葉と父が共謀したように映っているのかもしれない。
「本当に偶然ですが……。とにかく、立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」
松葉は芳樹の疑念を否定して、扉を大きく開けた。
芳樹の父はゆっくりと車いすを動かしてアトリエ内へ入ると、大きく息を吸って満足げにうなずいた。「絵が好きだ」と言っていたから、この場所の雰囲気も気に入ったのだろう。
松葉が案内したソファの脇に車いすを止めると、彼はゆっくりと松葉に向き直った。
「改めまして、歌川重雄です。先日は名刺も渡せずに申しわけない。息子がいろいろとご迷惑をおかけしたようで、すみませんでした」
松葉へと名刺を差し出した父に「迷惑なんて!」と芳樹が口をはさむ。
だが、父の視線に何を感じたかぐっと言葉をつまらせた。
芳樹には父の絵画を勝手に売却しようとした罪悪感があるのだろう。それだけでなく、親子関係に入ったヒビもいまだに修復できていないようだ。
「とんでもありません。歌川さま、いえ……今は依頼主の芳樹さまもいらっしゃいますので、重雄さまとお呼びしたほうがよろしいですね」
「はは、そんな風に呼ばれると穂仲さんを思い出しますね。今更かもしれませんが、お母さまのこと、お悔やみ申しあげます」
重雄は深く頭をさげた。松葉の父とだけでなく、どうやら母とも親交があったらしい。
「元々、わたしは穂仲さんの絵が好きでしてね。彼女の個展で、あなたのお父さんともお会いしたんですよ」
なるほど、と松葉は自然と首を縦に振る。重雄は絵画好きだ。鎌倉に住んでいるのなら、母のことは知っていて当然。両親とつながるわけだ。
「上村くんとは長い付き合いですが、お互い働いている身ですから。年に一度か二度、会って飲むんです。娘さんがいらっしゃるとは聞いていましたが、まさか上村さんだったとは。名刺をいただいたときにも少し考えたんですがね、今日まで確証が持てませんでした」
初めて会った日、名刺を驚いたように眺めていた重雄を思い出す。
あの父のことだ。まさか娘も芸術関係だなんて言うはずがない。
松葉は苦笑する以外になく、簡単な相槌ですませる。
ただでさえ不仲な依頼主と父の間にはさまれただけでなく、自らの父の話も絡み、少し居心地が悪い。
松葉はチラとキッチンの方を見やる。普段なら助け舟を出してくれる店主はまだコーヒーを入れていた。
せめて何か話題を変えたい。
松葉が思考を巡らせた数瞬の間。それを埋めるように「それで」と芳樹が口を開いた。
「鑑定結果がわかったんですよね。わざわざ父と来いだなんて……一体、何なんですか」
いらだちと希望、不安と安堵。さまざまな表情を織り交ぜた芳樹は、自分でも感情の整理がついていないのか、せわしなく視線を動かしている。彼もまた、松葉同様に居心地が悪かったのだろう。我慢の限界だとでも言うように
「そもそも、僕はもう絵画は好きにしてくれって言ったと思うんですけど。何を今更話すことがあるんですか」
とたたみかけた。隣に座る父がどんな表情をしているのかも知らずに。
芳樹がまだ父と話し合えていないことは明白だった。重雄が本当の父でないことも、父の療養費のために絵画を売却しようとしていたことも。すべて自分で背負いこみ、何も告げずに父のもとを去ろうとしている。
――でも、それは後悔しか生まない。
松葉もまた、覚悟を決め、背筋をただす。
「たかだか絵画一枚で関係性が崩れるなんて、笑い話みたいですよね」
松葉が切り出すと、芳樹は口を閉ざした。以前、芳樹自身が言ったことだ。そして、松葉自身の話でもある。
「重雄さまもご存じかもしれませんが、私は父とうまくいっていません。たかが絵画一枚で、私と父の間には三年経っても埋められない溝ができたんです」
ふたりには、そうなってほしくない。
松葉は芳樹と重雄をそれぞれ見やる。
「おふたりには、きちんと話し合ってほしいんです。今回、おふたりをお呼びだてしたのも、その考えからです。この絵画の本当の価値はおふたりにお伝えすべきだと思いまして」
松葉はソファから立ちあがると、後ろに置いていた肖像画を取り出した。
ローテーブルの上に肖像画を置くと、依頼主とその父はふたりそろってまじまじと絵を観察する。
何の変哲もない男の肖像画。広いキャンバスを余らせたアンバランスな構図。
何もかも初めて見たときから何も変わっていない。
けれど、今の松葉にはこの寂しささえも意味のあるものに見えた。
「まず、結論から言いますね。鑑定の結果、こちらの絵画を買い取ることはできません」
松葉がきっぱりと言い切ると、ふたりは対照的な反応を示した。
安堵の表情を見せたのは重雄だ。肝心の依頼主、芳樹はといえば、どこか落胆したような表情である。「好きにしてくれ」と言った手前、興味なさげに取りつくろってはいるものの、少しの悔しさがにじみ出ていた。
「……どうしてですか」
芳樹の質問が、その確たる証拠だ。本当に興味がないのなら質問などしない。処分してくれと言えばいい。そうしないのは、彼の中に何らかの未練があるからだろう。
松葉は、そんな芳樹の態度に胸をなでおろした。
まだ、希望はある。
「処分してくれ、とは言わないんですね」
松葉が素直に笑みを浮かべると、芳樹はハッと目を見開いた。自らの内側に潜んでいる本音に気づいたのだろう。
「どうして買い取れないか、その理由も含めて、今から詳しい鑑定結果をお伝えします」
松葉はそっとカルド・ワイズマンの肖像を持ちあげる。
ふたりが肖像画と対峙する。
それぞれに抱えた思いが、キャンバスの中で複雑な表情を浮かべる男とぶつかった。




