26.『愛』 グスタフ・クリムト
「少しは落ち着いた?」
珠子が湯呑と生八ッ橋を差し出す。手土産に渡したつもりだったが、まさかこんなことになろうとは。松葉は後悔しながらも湯気のあがる湯呑を両手で包む。
「駅のところにあま酒専門店ができたでしょう? あそこの人が持ってきてくださったの」
珠子は自らの湯呑に口をつける。品のある陶器だ。骨董だろうか、珠子によく似合っている。あま酒というのがまた彼女らしいセンスだ。
松葉は珠子が貸してくれたタオルをたたんで「すみません」と頭をさげた。
結局、父から逃げて来てしまった。父には「母から逃げている」と言っておきながら、松葉自身もこのざまだ。今ごろ、店主が父の話を聞いてくれているに違いない。
「いいのよ。別に、松葉ちゃんが謝ることなんて何もないわ。ちょうど退屈してたんだもの。でも、話したくなったら話してちょうだい。朝まででも付き合ってあげる」
珠子は軽い口調で松葉をなぐさめると、生八ッ橋を口に運んで「おいしい」と笑う。
普段どおりに接してくれる珠子の優しさが松葉の心をやわらげた。
「……さっき、父がアトリエに来て。また、ケンカしちゃって」
「あら。本当に仲がいいのね」
「よくありません」
「仲がいいほどケンカするって言うじゃない。アタシには、ふたりがそんな風に見える。相手を思うあまり、自分を見失っているのよ」
「ちゃんと、向き合わなきゃって思ってたのに……」
芳樹に伝えたように、松葉も行動しなければいけない。頭ではわかっているのに、いつもうまくいかない。父とはすれ違ってばかりだ。
松葉は湯呑を握りしめる。人肌ほどのぬくもりが自らの孤独を突きつける。
「父は、ご病気の友人を母に重ねてるんです。きっと、また大切なものを失うのが怖くて、絵画も友人のためと言いながら、自分のために探してるんだと思います」
「そこまで理解していて、どうしてケンカになるのかしら」
「わかりません。つい、売り言葉に買い言葉っていうか……。昔から父とはそうなんです」
「人ってね、自分の身を守るために怒るんですって。自分の心や大切にしているものが傷ついたとき、防衛本能が働いて相手を攻撃するの。動物の威嚇と同じね。お父さまと口論になるのはそのせいかもしれないわ。ふたりは、同じ傷を抱えているでしょう」
珠子は目を伏せる。母、上村穂仲のことは珠子もよく知っているのだろう。
――母が生きていたら、きっとこんなことにはなっていなかったのに。
松葉の脳裏にそんな夢物語が浮かぶ。
だが、自らが芳樹に言ったことを思い出して松葉は頭を振った。キリのない考えを、あま酒と一緒に飲みこむ。
芳樹には「ちゃんとふたりで話せ」とえらそうなことを言っておいて、自分は亡くなった母のせいにするなんて。
それだけは絶対にダメだ。これは、父と自分の問題なのだから。
「松葉ちゃんも、松葉ちゃんのお父さまも、肝が据わっているように見えるのに、本当は不器用で臆病なのね」
ふいに珠子が苦笑する。彼女は父についても知っているのだろう。
「お父さまは、どうして松葉ちゃんのところへ来たのかしら」
そう切り出した珠子はすべてを見透かしているようだった。
松葉は、自分の知らない、けれど珠子はすでに見つけているらしい答えを知りたくて素直に経緯を説明する。
珠子は静かに目を細めた。
「本当は、松葉ちゃんのことが心配でたまらないんじゃないかしら」
今まで松葉が考えもしなかったことをサラリと述べた珠子に、松葉は「え」と声を漏らす。
「だって、お父さまはご友人のかわりに絵画を探しに来たんでしょう? 捨てられたわけでも、売却されたわけでもない。優秀な鑑定士さまである娘が鑑定をしているってわかったんだもの。普通は安心するに決まってる」
「だけど、父は、友人の気持ちがわからないって……」
「だから、不器用なのよ」
珠子は肩をすくめると、再びあま酒を飲んで笑う。
「本当にご友人の絵画を探しているだけなら、現状の事実に安心するはず。でも、お父さまは安心すると言ったご友人の気持ちが理解できないんでしょう? それが本心よ。お父さまは芸術を恐れている。そんな芸術と向き合う娘を安心して見ていられないのね」
「それは、父が母と私を重ねているからで……」
「そうかもしれないわ。でも、平たく言えば、松葉ちゃんのことが心配なのよ。お父さまは、ご友人や、絵画が失われることよりも、奥さまみたいに松葉ちゃんを失うことが怖いの」
珠子の穏やかな口ぶりには説得力がある。
父の気持ちはわかっているつもりだったのに。
「……でも、私は母とは違います。たしかに、母は憧れの存在です。でも、私は上村松葉で、芸術家じゃなくて鑑定士なんです!」
駄々をこねるように松葉が声を張りあげると、いよいよ珠子はやわらかに微笑んだ。
「松葉ちゃんが伝えるべきことは、きっとそういうことなんじゃないかしら。お父さまに、自分の気持ちを素直に話すことが大事だってわかっているんでしょう?」
――寂しい。
松葉の心に浮かぶ子供じみた気持ち。それは、父へ向けた本心。松葉が今まで一度も父に伝えられなかった、娘としての思い。
お父さん、私を見て。
泣き叫ぶのは幼い自分の声。
物心ついたときには母を亡くしていて、頼れるのは父だけだった。彼はいつも松葉のために一生懸命だった。自らの進路をふさぐ壁のような存在だと思っていたけれど、本当は恐ろしいものから娘を守るために彼は松葉の前に立っていたのだろうか。
だから、松葉は父の背中しか知らない。
――そんなバカみたいな話があってたまるもんか。
松葉はあま酒を勢いよく飲み干す。上を向けば、涙も重力に逆らえる。
へこんでいる暇などない。いちいち、不器用な父に振り回されて落ち込んでいる場合でもない。もう、松葉は父の後ろについて隠れているだけの幼子じゃないのだ。
「私、やっぱり絵画を最後まで鑑定して……ちゃんと、実力で証明します。父を説得するために。私は鑑定士で、母じゃないんだって、自分の力で認めてもらわなくちゃ」
松葉はキャンバスバッグをひったくるように肩へかけ、勢いよく立ちあがった。
依頼主のために。父のために。そして、自分のために。
カルド・ワイズマンの肖像を鑑定しよう。




