25.『パリの通り、雨』 ギュスターヴ・カイユボット
「え」
松葉の口から声が漏れる。途端、父の眉がピクリと動く。
「松葉、お前、何か知ってるんじゃないか」
その声はおよそ三年ぶりの親子の会話とは思えないほどに冷たかった。父は目を合わせることもせず、松葉の抱えたキャンバスバッグを見つめている。
「……何も」
ここで知っているといえば。まさにその絵を鑑定中だと言えば。父はどんな反応をするのだろう。激昂してキャンバスを奪い取るのだろうか。それとも蔑むような目で訴えかけるのだろうか。
ただでさえ、突然現れた父に混乱しているのに。どれほど邪魔をすれば気がすむのだろう。
まさか、父が歌川家とつながっていたとは思いもしなかった。
知らないと嘘をつけばよかったものの、松葉はとっさに顔をそむけた。最も嫌なところをつかれたときに出る松葉の癖。父親がそれを見抜けないはずがない。
「知っているんだな」
問いつめるような口調に、松葉の気持ちはますますささくれ立つ。
「だったら何なの」
「なんだ、その言いぐさは」
父の威圧的な態度が松葉の冷静さを奪う。
「どうせ、お前が適当なことを言ってその絵を買い取ろうとしてるんだろう」
「違う!」
「芸術だなんてくだらない。価値なんてわかったもんじゃないくせに」
もともと火種はくすぶっていた。燃料があれば、火がつくのは一瞬だ。
「急に来たと思ったら何なの! だいたい、お父さんもお父さんでしょ! 歌川さまが絵画をなくしたから探してくれってお父さんに頼んだの⁉ どうせ、お父さんの余計なおせっかいでしょ!」
松葉が声を荒げると、ようやく父と視線がぶつかる。
「どうして歌川さんのものだと知ってるんだ」
父の問いには答えられなかった。口を閉ざすかわりに目を見開けば、店主がそっと父の前へコーヒーの入ったマグカップを差し出す。はかったようなタイミングだ。
「どうぞ」
松葉と父の間に流れる重たい空気を気にもとめず、のんびりとした口調で店主は父へコーヒーをすすめる。
「あ、ああ……どうも」
父はそのことに拍子抜けしたようで、松葉への態度から一変、間の抜けた返事をひとつ。
「うちの鑑定士が失礼な態度をとってしまって、大変申しわけありません。ですが、うちにもお客さまとの守秘義務がございますので。お答えしかねる部分もあるのです」
店主がなだめるように、滔々と父を諭す。老紳士の穏やかな態度が父の頭を冷やしたのか、父はコーヒーを口に運び「いいえ」と視線を落とした。
「それにしても、ご友人の絵画をお探しになられるなんて、よほど仲がいいんですな。普通はそこまでしませんよ」
店主は父の前へ腰かけると、にこやかな表情で話を戻した。相手を立てる気遣いもある。
松葉ができなかったことをさらりとやってのける店主の姿に、松葉は自らの幼稚さを反省する以外ない。
「……ええ、まあ。もう三十年近い付き合いになります。昨日、久しぶりに飲んだんですが、そのときに絵画の話が出ましてね」
父も、松葉と同じく自らの態度がいたらなかったと考え直したのか、姿勢を正して店主の方へ向き直った。
「もちろん、わたしもそれだけだったら彼の絵画をかわりに探してやろうなんて思いませんよ。でも、彼は体が不自由ですし、それに……」
父は口をつぐんだ。臆病で弱々しく、背中を小さく丸める父は孤独で、瞳から悲痛がこぼれそうだった。
普段は強気な態度をとって見せることの多い父だが、松葉も一度だけ同じ表情を見たことがある。
それは、松葉が髪を赤く染めた日のこと。高校の卒業式だった。母と同じ髪形にした松葉のことを、父が直視しなくなった日でもあった。桜はまだつぼみの状態で、全然綺麗なんかじゃなくて、父はただのひと言もしゃべらなかった。
父が震える呼吸を整えたことで、松葉は現実に引き戻される。
「……友人はガンにかかっていましてね。息子は就職をしてひとり暮らしを始める。自分はもう長くない。大切にしていた絵画を譲る絶好の機会だったと話していました。ですが、譲ったはずの絵が息子の部屋にない。彼のことを思うと、わたしは……」
別離と芸術。父にとってそれは密接に関係している。妻と絵画。妻と死。おそらく、友人のことが妻と重なったのだろう。彼は怖いのだ。ひとりになることが。
――目の前に私がいるのに。
父の思いがわかると同時、松葉はひどくみじめな気分になった。
松葉にとっては唯一の家族だが、父にとって松葉は妻の幻影なのではないか。だからこそ、松葉が妻に近づけば近づくほど、彼は松葉を恐れ、松葉から芸術を取りあげようとする。
もう二度と、妻を失いたくはないから。
父にとっての松葉は、娘ではなかった。
父の心の内は痛いほどわかる。わかるからこそ、余計なことにまで気づいてしまう。
「実は、友人が松葉の名刺を見せてくれましてね。息子は絵が嫌いだから、アトリエに売却や処分を頼んだかもしれないと寂しそうで……わたしはやるせなかった。彼は息子とふたりでよく材木座海岸を散歩してるんだそうで。だから、息子さんも、このアトリエのことは知ってるかもしれないと思いましてね」
父はそこまで言って、ポケットから一枚の紙を机に置いた。たしかに松葉の名刺だ。
「彼は、松葉をいい娘だと。優秀な鑑定士に違いないと言っていました。だから、もし絵画が彼女のところにあるなら安心だなんて笑っていたくらいで。でも、わたしには、その気持ちがわからないんです」
父は松葉に視線も向けずに呟いた。
松葉のことを傷つけるだけだと知っていながら、その言葉を口にする魂胆は松葉にも理解できない。
「……そこまで知ってるなら、口を出さないでよ」
松葉の呟きが聞こえたのだろう。父が振り返る。
「嫌味を言いに来たなら帰って。歌川さまの話は私だって知ってるから。絵は処分なんてしてないし、ちゃんと仕事として真面目に鑑定してるの!」
父は何か言いたげに眉をしかめ、困ったように口をもごもごと動かした。
だが、結局彼は何ひとつとして言葉にしなかった。今までのように。
「お父さんに、絵画のことなんて、歌川さまの気持ちなんて、本当はわかるわけない! お母さんからいつまでも逃げてるお父さんには!」
父の泣きそうな顔に、松葉はハッと我にかえる。頭にのぼっていた血液が一瞬で足元まで引いていく。そのせいか考えるよりも先に足が動いた。
扉を勢いよく開けて逃げ出した松葉の頬は熱く、涙か雨かわからない水滴が頬の熱を奪っていった。




