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絵画鑑定士は謎解きがお好き  作者: 安井優


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24.『山下白雨』 葛飾北斎

「それで、肖像画は一度預かることにしたわけだね」


 松葉が昨夜の話をすれば、案の定というべきか、店主は穏やかにうなずいた。


 あのあと、芳樹はしばらく泣いていた。海を見つめ、ただ静かな夜風に吹かれていた。


 彼が冷静さを取り戻し、自宅へと帰っていったのはもう街が寝静まったころ。


 結局、芳樹は絵画を持って帰る気にはなれなかったようで、カルド・ワイズマンは今日も松葉の前で彼女をからかうような、斜にかまえた表情を見せている。


 芳樹のせいで少し寝不足だが、嫌な気はしない。むしろ、


「好きにしてくれと言われましたので」


 それだけで充分だ。捨てることに関してはひとまず思いとどまってくれたのだから。


「うん、松葉ちゃんらしいいい判断だと思う。鑑定だって、制作年と制作場所がわかっただけでも充分な成果だ。これは難しい依頼だから、たった二日でそこまで調べられるなんて、正直驚いたよ」


 優しい店主の言葉が松葉の身に染みた。


 窓の外をたたく春の雨。雲間からのぞく弱い光を見つめて、店主はコーヒーに口をつける。


 ただでさえ普段から客の少ないアトリエは、雨が降るとますます客足が遠のく。絵画という雨に弱い商品を扱っていることも要因のひとつだろう。


 普段なら嫌な天気だと思う松葉も、今日ばかりは店主とゆっくり話す時間がとれてよかったと安堵する。


「……それで? 最終的にどうするかは決めたのかい」

「いえ。それについてはまだ決めてません。ふたりの関係性が解消されれば、絵画を返却してほしいと思っていただけるかもしれませんし、そのまま売却を検討されるかも。でも、私自身はまだ、少し調べたいことがあるんです。それがわかるまでは、手放さずに持っておこうと思います」

「ほお、まだ何かあるのかな」

「魔除けの力について、です」


 松葉はイーゼルに立てかけられた肖像画をチラリと見やる。作者も気になるが、それ以上にやはり、魔除けの力にまつわるエピソードが気になってしまう。


 それこそが、カルド・ワイズマンの正体そのものであり、この絵の価値にほかならない。


「あんなに怪しんでいたのに、これまたずいぶんと入れ込んだねえ」


 店主の苦笑は松葉の耳には痛かった。それでも、発言を撤回するつもりはない。


 芳樹たちのためにも、この絵の価値をどうしても明かさねばならないと決意したのだ。


 それに。


「……もしかしたら、私情を持ち込んでしまったのかもしれません」


 依頼主と彼の父との関係性はもちろんだが、松葉と父との関係を改善するための一歩になるかもしれない。


「この絵の価値を見いだせたとき、私はようやく、父と真正面から向き合えるようになる気がするんです。ひとりの鑑定士として」


 松葉が素直に打ち明けると、店主が彼女を振り返った。老紳士の顔には、少しの驚きと多くの喜びが混ざり合っている。


「どうして、そう思うんだい」

「……それは、まだ。直感的に、ですかね」


 松葉が苦笑すると、店主はほっほっと声をあげて笑った。


「うん。松葉ちゃんらしいね。でも、直感的にそう思うなら大丈夫だ。そのときが来たら自然とわかるさ」


 何もかもがうまくいくとは思わない。だが、店主に背中を押され、松葉の心は軽くなった。


 ほっと一息、店主の淹れたコーヒーを口に運ぶ。


 依頼主のことは気になるものの、今、松葉にできることは鑑定だ。


「私、調べものに行ってきます」


 もちろん、向かう先は骨董屋だ。珠子にはお詫びもお礼もたっぷりとしなくては。


 松葉はアトリエのレジから大きなビニール袋を引っ張りだす。手早くキャンバスにかけて保護し、バッグへとつめ込んだ。珠子への手土産を忘れぬようにとつかみ、


「行ってきます」


 と店主に声をかける。


 だが、店主の口から出たのは見送りの言葉ではなかった。


「おや」


 いつもはやわらかく細められている店主の目が大きく見開かれる。


 瞬間、松葉が手をかけていた扉がぐいと引かれ、カラン、と来客を告げる鐘が鳴った。


 ぶつかりそうになって、松葉は反射的に頭をさげる。一歩身を引いて待つ。客優先だ。そのまま扉脇に避けて挨拶をひとつ。


「いらっしゃいませ」


 すっかり体に染みついた接客用の笑みを浮かべてようやく顔をあげる。


 しかし、


「……なんで」


 目の前の人物を認識した松葉は一瞬にして笑みを強張らせた。


 雨の日の貴重な客、否、松葉の父が立っている。彼は眉間にしわを寄せ、苦々しい顔を見せていた。


 仕事人間であるはずの父親が、どうして平日の昼前に。


 ――しかも、どうしてこのタイミングで?


 ピシャッ!


 激しい雷鳴が外にとどろいた。近くに雷が落ちたらしいと松葉が妙に冷静なことを考えてしまうのは、彼女が現実を直視できないから。


 雨の混ざった冷たい海風が嫌な予感を運ぶ。


 松葉の様子を察した店主がそっと彼女と父の間に割って入って「どうぞ中へお入りください」とやわらかな物腰で誘導する。


 父は松葉を一瞥すると、案内されたソファに腰かけた。


「本日はどうされましたか」

「友人がとある肖像画を探してましてね」

「ほお、肖像画のタイトルなどはおわかりですかな」

「さあ。ただ、何でも先祖代々大切に受け継いできたものらしいんです。先日、息子に譲ったところ、それがなくなってしまったかもしれないと。大切なものだと聞いたので、わたしはいてもたってもいられなくなりましてね。ここなら何かわかるんじゃないかと」


 店主は何を察したか、松葉をチラリと見やってから笑みを作る。いくらか皮肉の混じった笑みに見えた。


「鎌倉のアトリエは他にもあるというのに、わざわざこちらを選んでいただけるとは。光栄なことですな」

「優秀な鑑定士がいるらしいと友人から聞きましてね」

「ええ、それはもう。それで? そのお探しの絵とやらはどのような絵かお聞きしてもよろしいですかな」

「もちろん。なんでも、その絵には魔除けの力があるとか」


 父の嫌味たらしい口調が二度目の雷鳴とともに松葉を貫いた。

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