22.『降りてくる夜の影』 サルバドール・ダリ
聞き間違いではないだろうか。
「おっしゃってる意味が、よく……」
松葉が素直に困惑を表情で示すと、芳樹はふいと顔を浜辺へ背けた。それこそが答えだ。聞き間違いではない。わがままを言った本人もいたたまれないようだった。
「すみません、突然……。でも、もういいんです」
芳樹はズッと鼻をすすって、ただ遠く、夜の闇に溶けた海面を見つめる。
春も間近とはいえ、夜はまだ冷える。
――一体、いつからここにいるのだろう。
砂浜に続く石段に腰かけたままの青年は、もしかしたら、このままここで夜を明かすつもりではないか、そう思うほどに微動だにしない。
「もういいって、そんな急に……」
言いかけて、松葉はハッと口元をおさえる。
「もしかして、お父さまに絵画のことが⁉」
たった数時間。されど数時間だ。状況は常に変化し続ける。波のように。
つい数日前まで、松葉はこの絵の価値など気にもとめていなかった。鑑定を面倒くさいとすら感じていた。そんな松葉がショックを受けるなんておこがましいかもしれない。だが、ようやく絵に興味を持ち、その価値を見極めたいと思うほどになったのだ。売却を考え直してほしいと依頼主を説得する覚悟まで決めたのに。うまくいけば、彼と父は仲のいいままで過ごせるのでは、なんて――そんなことまで考えていた矢先にこれか。
自業自得かもしれないが悔しい。
松葉が顔をしかめると「いいえ」と芳樹が首を横に振った。
「そういうんじゃないんです。父はまだ僕が絵画を持っていると思っています。夕方、父と会ったときも、父は何も言ってこなかったですし。多分、引っ越し荷物の中にまぎれてるんだって納得したんじゃないですかね」
「それじゃあ」
松葉が安堵したのもつかの間。
「でも、あの絵は上村さんの好きにしてください。僕にはもう必要ありませんから」
彼の言葉に、松葉の心は今度こそ熱を奪われた。松葉の前に一瞬顕現した希望はスパンと心ごと切り落とされ、かわりに冷ややかな感情がどっと押し寄せる。
あれほどまで絵画の価値にこだわり、金に執着していた青年と同じ人物とは思えない。父とケンカ別れをしたくないから早く持って帰ってきてくれ、一度返却してほしいと、夕方必死に告げていた彼とは別人だ。
松葉だって、彼の想いを受けて、納得のいかないままに帰ってきたのに。
いらだちをなんとか抑え込み、松葉は大きく深呼吸する。焦らない、丁寧に。人間関係も同じだ。あらゆるものは、簡単に壊れてしまうのだから。
「必要ないって……一体、何があったんですか?」
少なくとも、金にしようと考えていたものを捨ててしまってもいいと思うほどの何か。
京都から鎌倉に急遽戻った松葉よりも、さらに激動の渦に芳樹が巻き込まれたことは明白だった。
最初のころとは立場逆転。今ではすっかり松葉のほうが絵画の価値をあきらめきれないでいる。
芳樹は少しのためらいを見せたあと、思い切ったように立ちあがって
「ちょっと、歩きません? さすがに少し寒いし」
と下手くそな作り笑いを見せた。
大げさなリズムをつけて石段を下り、彼は砂浜を蹴る。松葉は黙ってそれに続く。
ずっと座って話をするよりも歩きながらのほうが幾分か気持ちもまぎれた。
「お金は、もう必要なくなったんですか」
鑑定や売却の必要がなくなったということはすなわちそういうことだ。
松葉が思い切って尋ねると、彼は「そこは変わりません。でも、わからなくなりました」と海を見つめたまま答える。
歩いていると、視線を合わせなくてすむ。
それが気楽で話しやすい環境を生み出しているのだと松葉が気づいたのは、芳樹が
「父のために、なんとか金が欲しいと思って依頼したんですけどね」
自分に言い聞かせるような声量で呟いたときだった。
「父は隠してるんですけどね、僕の父、ガンなんですよ。冬くらいから通院してたみたいで」
彼が今まで話してこなかった、金についてのプライベートな理由。
彼が工面したかったのは父の借金ではなく、療養費だったらしい。それも、父親が病気であることを隠しているからこそ、芳樹も内緒でその金を集めようとしていたなんて。
親が心配をかけまいと振舞っていることに対して、敬意を払った立派な行動だ。
「……そう、でしたか。でも、どうしてそれが急に」
松葉は戸惑いがちに問いかける。芳樹は唇を噛みしめた。伏せられた目はひどくわびしい。
「僕は、父のことを尊敬していました。いえ、今でも尊敬しています。父は、僕を男手ひとつで育ててくれたから」
足元から砂浜のささやきが聞こえる。それだけが、震えて消えてしまいそうな彼の声を世界に縫いとめていた。
松葉は芳樹が自らと同じ境遇であるせいか、途端に他人事とは思えなくなって脇に抱えていたキャンバスバッグを握りしめる。
キャンバスが熱く感じるのはどうしてだろう。
芳樹は足を止める。彼の目はそのまま海面に揺らめく欠けた月を見つめていた。
長い空白。
松葉はただ言葉を待つ。
言うべきか否か、芳樹は逡巡を見せ、口を開く。
「でも、父は」
言いかけて、芳樹はまたもそこで言葉を切った。
波がザンと押し寄せる。二度目の沈黙は、一度目よりも短かった。
「父は、僕の本当の父親じゃなかったんです」
芳樹が吐露した想いは潮風によって海へと運ばれていく。そのまま波間に沈んでしまえばいい――松葉には彼自身がそう願っているように思えた。
「……父が大切にしていた絵を内緒で売ろうとしたから、バチがあたったんですかね。魔除けの力なんて信じてなかったけど本当だったのかも」
堰を切ったように彼から言葉がこぼれ出た。
「父はいつも僕に隠しごとをするんです。昔、借金をしていたときもそうでした。今、ガンにかかってることも。僕の父じゃないことも、全部。それが、僕を信頼してないみたいに思えて」
決壊する。
「僕が……っ! 僕が、本当の息子じゃないから!」
海へ向かって叫ぶように言い放つと、彼は肩で息をした。
今までこらえていた涙が芳樹の目からひとつこぼれ落ちる。彼はとっさに「砂がすごいですね」と目を拭った。笑う必要なんてないのに、彼の口角は無理やりに持ちあげられていた。
絵画を持ってきたあの日、彼はおそらく鑑定依頼を松葉に頼む前まで絵画の扱いに悩んでいたはずだ。だが、鑑定の話になり、金の話になってからは必死だった。思えば、その瞬間に決心したのだろう。
父の命を救うためならば、家族の形見を失ってもいいと。
そこからはきっと、父への思いばかりだったはずだ。
それなのに――
青年が知ってしまった残酷な現実に、松葉は返す言葉も見つからなかった。




