20.『赤・青・黄のコンポジション』 ピエト・モンドリアン
日曜日の夕方、京都駅は観光を終えて地元へと帰る人たちや仕事帰りの人たちであふれかえっていた。
「ほんなら、気いつけてな」
松葉を駅前で降ろした教授が運転席の窓から顔をのぞかせる。
まさか教授が駅まで送ってくれるとは思わなかった。しかも、手土産まで渡されるとは。肖像画を片手にキャリーケースを引き、渡された手土産――生八ッ橋と抹茶チョコレート、どちらも松葉の大好物だ――を抱える。
「本当にありがとうございました」
さすがの松葉も素直に感謝を口にする。
二泊三日の短い時間ではあったが、教授には散々鑑定に付き合ってもらった。それだけじゃない。悔しいが、教授から社会人として、鑑定士としてのあり方を改めて教わった。
「先生によろしくな。迷惑かけるんちゃうで」
「はい、伝えておきます」
それじゃあ、と松葉が手を挙げると、教授が「ああ、そうや」と思い出したように窓から身を乗り出し、松葉の手を引いた。ぐっと顔の距離が近づいて、松葉は思わず目を見開く。
「その指輪は俺がもらっといたるわ。君には似合わへんからな。かわりに、もっとええもんそのうち送ったる」
松葉の左薬指に輝いていた指輪がスイと抜かれる。指輪はあっさりと教授の手中におさまってしまった。
「え⁉」
「俺にとられたって言うとき。それが無理なら、なくしたとでも言うんやな」
教授はいつものいやらしい笑みを浮かべて「じゃ」と運転席の窓を閉める。松葉が文句を言う前にエンジンが音を立てた。
「ちょっとお!」
松葉は颯爽と走り去っていく彼の車を見送るほかない。
餞別として受け取ったとは言え、珠子に返そうと思っていたのに。
最悪だと心の中で毒づきつつ、諦めをはき出した。あの教授の不可思議な行動をいつまでも引きずっていても一銭の価値にもならない。
松葉は気持ちを切り替えて、新幹線の乗車口へと向かう。
芳樹にも連絡を入れなくては。肖像画を一度返却するついでに、ここまでの鑑定結果も伝えておきたい。そのうえで、売値についても相談する必要がある。
「本当に売っちゃうつもりなのかな……」
誰に言うでもなく、松葉はひとり呟く。
塗りつぶされていた元の絵は緻密で繊細。修復できるのならば、今のものより一層美しい絵画になるだろう。そうでなくても、現時点ですでに歴史的価値を見出せる絵画だ。作者は不明だが、オランダ黄金時代の資料になることは間違いない。何より、額縁をはずした瞬間の引き込まれるような不思議な力。一族で代々受け継ぐにふさわしい絵画だと思う。
「本当は、もっと説得できる材料があればいいけど。絵画の価値があがればあがるほど、きっと歌川さまは売却したいって思うはずだよね」
松葉とはどうしたって相容れない人種だ。それでも肩入れしてしまうのは、依頼主と彼の父、自らと自身の父の関係性に重なる部分があるからだろう。たかが絵画一枚に親子関係を振り回されているところなんてそっくりだ。
「……結局、全部店長と教授の言うとおりじゃん」
さまざまな依頼をこなし、ようやく一人前の鑑定士になれたと思っていたが、まだまだ教授にはかなわないらしい。
なにより、その教授を育てたであろうアトリエ店主にはもっとかなわない。店主は、きっとこうなることをわかって依頼を引き受けたのだ。魔除けの力がどうとか、肖像画の謎がどうとか、そんなことは関係なかった。松葉がひとりでどこまでできるのか、きっと試したのだろう。
松葉が自分の未熟さを噛みしめると同時、新幹線がホームへ滑り込んでくる。
東京行きの新幹線は混んでいて、楽しげに思い出を語り合っている人たちが多かった。
乗り込んだ松葉はひとり、窓際の席に座る。
外を眺めれば、途端にやるせなさがこみあげてきた。
依頼主のことも考えられずに自分の興味を優先して、教授や珠子にも迷惑をかけた。鑑定も中途半端で、鑑定士としても中途半端だ。
「……もう」
泣いてはいけない。松葉は目をこすり、ぐっと唇を引き結ぶ。
――泣いている暇があるなら、少しでも肖像画のことを考えよう。誰かの手によって、あとから塗りつぶされた絵の意味は? 何のためにその絵を隠したのか? あの絵は、何を表しているのか?
松葉は今までのことを思い返して、スマートフォンのメモを開く。わかったことや、調べたこと、それらをすべて打ち込んでいく。
並ぶ単語、連なる文章。それぞれの関連性は決して多くない。だが、そこから他に導き出せることはないだろうか。
今までに調べたメモも見返しながら、何か新しい手がかりはないかと松葉はとにかく頭を回転させた。余計なことを考えてしまわぬよう、必死に。
「そういえば、最初のころは、魔除けの力から魔女狩りの話になって……バロック時代とつながるからってイタリアに関係してるんじゃないかって話してたんだよね。っていうか、ブイヨン賢者って……」
松葉は初期の調査メモを思い出しながら、「全然違うじゃん」と苦笑する。
だが、
「……あれ?」
自らがこぼしたそのひと言に、松葉は引っかかりを覚えた。
この絵画はオランダ生まれだ。つまり、カルドはイタリア語の意味とはまったくの無関係なのではないか。
オランダ人に多い名前なのか、別の意味があるのか。もしくは、ワイズマンと同様にカルドも英語の可能性は?
しかも、だ。この絵画はオランダから日本に雑貨とともに輸入されている。この肖像の名前は口伝でのみ受け継がれてきているのだから、交渉の際に使われていた言語と密接に関係している可能性が高い。
「ワイズマンは明らかに英語だし、英語で雑貨の仕入れをしていたとしたら……カルドも英語?」
松葉は翻訳アプリを立ちあげる。カルドという響きから考えられるつづり。アルファベットの並びを何度か変えて打ち込む。
――そこから導き出された新たな解釈、可能性。
松葉は新幹線の車内であることも忘れて
「ああ!」
と大声をあげた。
カルド。その音は、カードとも発音できるではないか!
すなわち、カード・ワイズマン。
「賢者のカード⁉」
松葉は勢いよくスマートフォンの検索エンジンに単語を打ち込む。
カードと言えば、必ず絵がついている。
「カードなら、肖像画か下絵に似たイラストのものがあるかも!」
画像一覧を表示させるとカードゲームのイラストが並ぶ。だが、どれも今風の絵だ。アニメやマンガ、ゲームなどのイラストが多く、松葉が想像していたものではない。
諦めることのできない松葉はすがる思いで画面をスクロールしていく。
肖像画か下絵の構図とよく似た絵はないか。もっと写実的な絵はないか。
松葉の推測どおりなら、必ず何か引っかかるものがあるはずだ。もしも、カルド・ワイズマンの肖像が有名なものなら、同じ絵柄が。そうでなくても、元となった何かが。
検索結果は当然、一番よくヒットするものから並べられている。下へ行けば行くほど、本来調べたかったことからは遠ざかっていく仕組みだ。今風なものが最初にヒットするならば、そこから遠いものを探せばいい。さまざまな絵柄が上へと流されていくのもかまわず、とにかく少しでも宗教画や肖像画に近いような絵を、と指先を動かして――一枚の画像で松葉は手を止めた。
明らかにテイストの違う画像がポンと目に飛び込んでくる。紫の背景に明るい黄色を使った画像は、肖像画に負けず劣らずの強烈なコントラストを生み出している。怪しげなイラストだが、比較的絵画に近い絵柄だ。
松葉は祈るような気持ちでその画像をタップした。
『オラクルカードで、あなたの今を占います☆』
「オラクルカード……?」
最近では珍しいどう見ても素人が作ったホームページが開く。
サイトのトップには閲覧者のカウンター。時代を感じるトップページに、松葉はやや顔をひきつらせながらもサイトを眺める。
絵画風な女性のイラストや、天使のイラストが描かれたカードが一枚ずつ紹介されている。どうやら、それらはオラクルカードの一部らしい。占いに使うものだとわかったが、オラクルカードの名に聞き覚えはない。
松葉はそのサイトを開いたまま、新しいタブを開く。今度はオラクルカードを検索する。
「神託を受け取るためのカード、卜術の一種……」
オラクルカードの歴史を見れば、ここ二十年ほどで流行したらしかった。
つまり、カルド・ワイズマンの肖像が制作された時期とはまったく関連性がない。
もっと古くからあるようなカードであれば、何か手がかりがつかめたかもしれないのに。
そんなことを考えた松葉に再び天啓が舞い降りる。それこそ、オラクルカードから神託を告げられたかのように。
「タロットカードは⁉」
オラクルカードの関連ページに表示されたタロットの項目をタップしてリンクを開く。
名前くらいは聞いたことがある。だが、オラクルカード同様、松葉はタロットカードの詳しい情報など知らない。いつ、どこで生まれ、どのような絵柄が存在するのかも。
「タロットカードに、賢者ってカードがあるのかも」
松葉はスマートフォンにかじりつきながら、その手がかりを探していく。
「タロットの歴史は深く、古代から存在している説もある……」
記録上に残されている最古のタロットは十四世紀のフランスのもの。カルド・ワイズマンの肖像が制作されたであろう年代にも、制作されたであろう地域にも近い。
読み進めていくうち、松葉は気になる一文を見つけた。
「当時は、貴族や富豪のために画家が手描きで描いて作製していた」
タロットの形態が今ほど確立されていなかったころの話だろう。
カルド・ワイズマンの肖像はタロットカードとして遊びや占いに使うには大きすぎる。
だが、タロットの図柄を決めるため、もしくは、気に入った図柄を個人的に所有するために描かれた絵なのだとしたら?
おそらく、タロットカードを描く画家の名は後世に残らない。だが、図柄の名前なら伝承されるはずだ。何せ、カードには呼び名が必要なのだから。
「……ありえない話じゃない」
松葉は再び新しいタブを開くと、検索欄に『タロットカード 賢者』と打ち込んだ。
これで、あの絵とよく似たカードが出てくれば……。
「あれ?」
松葉は首をかしげる。
検索結果のトップに現れた文字は『タロットカード、隠者の意味と解釈』であった。
「隠者?」
そのまま画像一覧も表示させる。だが、どれも『隠者』と書かれているうえ、絵柄もまったく違うものばかり。
描かれていたのは、ローブを深くかぶり、杖とランタンを持つ老紳士――まったくカルド・ワイズマンとは別人だ。
今度こそ間違いないと思っていただけに、松葉はがくりと肩を落とす。どうやら、タロットカードに『賢者』は存在しないらしい。
「ううん、もしかしたら同じ意味かもしれないし……」
松葉は試しに『隠者』の解説ページを開く。これ以上はない。正解であってくれ。そんな思いばかりが募る。
サイトにはカードの絵柄についての解説があり、続けてカードが示す意味が書かれていた。正位置ならば高い精神性や思慮深さを表し、逆位置ならば悲観的、保守的な考えに陥っていると書かれている。賢者との関係性は示されていない。
松葉は自然と顔をしかめていた。まさに今の状況だ。悲観に暮れ、ようやく見つけた手がかりもあっけなく潰えてしまいそうなのだから。
松葉の脳裏に、芳樹の冷たい声と教授の声、そして、父の声が響く。
絵の鑑定なんてしてどうするんだ。一体それが何になる。
依頼主は、もともと絵の価値に興味なんてない。売却さえできればそれでいいんだから。
彼と父親との関係が壊れてしまおうが、松葉の知ったことじゃない。
――本当に?
松葉は握っていたスマートフォンをポケットの中へしまいこんで、窓の外へと視線を移す。
もう春も間近だというのに、季節はずれの雪が残っている米原の白い景色がやけに印象的だった。




