2.『天秤を持つ女』 ヨハネス・フェルメール
「どうして引き受けたんですか⁉」
松葉の抗議が店主とふたりきりのアトリエに響いた。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえているよ」
店主は軽く松葉をいなすと、依頼主が置いていった肖像画を裏返す。額縁をはずした店主はキャンバスの裏面を見つめた。
「カルド・ワイズマンと言ったかな」
「え?」
「制作年は……書かれてないね」
すみずみまでキャンバスの裏側を確認した店主は額縁を元に戻すと、再び肖像画を表に向ける。彼の瞳は複雑な表情をたたえる絵画の男へと向けられた。松葉の視線もつられて絵画へと吸い込まれる。
カルド・ワイズマン。肖像画には画家の名前すらない。描かれた男の名だけが口伝された。
依頼主の家系に異国の血が混じっているとは考えづらく、少なくとも親族の肖像画ではなさそうだと松葉は検討をつける。であれば、まったくの無関係でありながら、絵画に残しておきたいほどの人物――宗教関係か、いつぞやの友人や恋人の可能性も……。
尊敬する人や愛する人の姿を絵画におさめることは写真を撮ることと同じだ。
松葉は自らをうれしそうに見つめる視線に気づいて顔をあげた。
「って! 話をそらさないでください!」
「松葉ちゃんを雇ってよかったなと思ってねえ。さて、何の話だったかな。年をとると忘れっぽくて困る」
「どうしてこの依頼を引き受けたのか、です!」
松葉がむくれると、何が面白いのか店主はほっほっと笑った。
「まあまあ、彼にもいろいろ事情があるようだし」
「そりゃ、引っ越し前でお金が必要なのはわかりますけど。仮にも父親から譲り受けた絵を売るなんて」
「お客さまのことをそんな風に言ってはいけないよ。たしかに、せっかく先祖代々受け継いできた絵画を手放すなんてもったいないと思うけどね」
「だいたい、普段なら店長だって安請け合いするなって言うじゃないですか」
松葉がじとりと店主を見れば、老紳士は「そうだったかな」と首をかしげた。
「いい経験だと思ってさ。魔除けの絵画なんて珍しいものを鑑定できる機会だ。これを逃すと、二度と訪れないチャンスかもしれないよ」
「一度たりとも訪れてほしくないですよ。そもそも、私ができるのは絵画の鑑定ですし」
「松葉ちゃんは顔も広いだろう?」
「魔法使いの知り合いはいませんよ」
「おや、それは残念だね」
松葉はまたはぐらかされていることに――それどころか、すっかり松葉がこの依頼を引き受けることになっていることにも気づかず、「ただ」と言葉を続ける店主の話に耳を傾けた。
「本当に大切なことは、この絵に魔除けの力があるかどうかじゃない。依頼者にとってどんな価値があるか、だよ。それを調べるのが松葉ちゃんの仕事。違うかい?」
時すでに遅し。はめられた、と松葉は絶句する。
「それは……そうです、けど」
かろうじて承諾とも拒否とも取れる相槌をうつ。店主は「おや」ととぼけた声を出した。
「そういえば、松葉ちゃん、今月の家賃がまだだったような……」
松葉はアトリエの二階を住居として借りている。アトリエの所有者は店主であり、彼女にとって店主は家主でもある。ここで家賃を持ち出されては松葉も耳が痛い。
特に先月は鑑定の依頼が少なかったのだ。アトリエの雑務をこなしても収入はギリギリ。ここで依頼を受けなければ、松葉の今後の生活に支障が出ることは間違いなかった。
「わかってますよ! でも……」
だからと言って「はい、わかりました」と簡単に引き受けられる依頼ではない。
「何が気に入らないのかな」
普段であれば、家賃を引き合いにだしたところで松葉が折れる。面倒な客の相手も、鑑定依頼も、最終的に断ることはない。だからこそ店主も、不服を前面に押し出す松葉に「珍しいこともあるもんだ」と目を細めた。駄々をこねる孫を見つめる祖父の表情だ。
「何がって……店長は理解できるんですか? 先祖代々受け継いできた絵画を、勝手にお金のために売り払うんですよ。それなのに、親とケンカはしたくないから内緒にしておきたいだなんて、都合がよすぎます!」
引っ越し先に持っていきたくないのなら実家に飾っておけばいい。いくら絵画に興味がないとはいえ、父親の気持ちを軽視した判断だ。父親と仲がいいならなおさら、それくらいの会話はできるはずである。
「そういえば、松葉ちゃんはお父さまとケンカ中だったねえ」
そんな風に言われては、自分が父親と仲のいい依頼主に嫉妬しているみたいではないか。松葉は思わず顔をそらす。それが肯定の意味を示しているとも知らずに。
「松葉ちゃんが本当に嫌なら断ろうか」
嫌味ではない。松葉への思慮を存分に含んだ店主の言葉はひどく優しかった。
断りたい。松葉の心に甘えが生じたその瞬間。
――芸術なんてやめなさい。
父の声が脳内に木霊した。「プロとしての覚悟が持てるのか」、「誰のためになるんだ」と言う声が。
松葉は自らが作りあげた虚構の父親像を無理やり頭から追い払い、悔しまぎれに拳を握る。無意識のうち、松葉の口からは父に抗うように「いえ」と否定の言葉がこぼれていた。
「仕事に私情を持ち込むつもりはありません。……依頼は、引き受けます」
「そうかい? それなら安心だ。さすが、松葉ちゃんは優秀で助かるよ」
「お金のためですから!」
――これでは、金のためにと絵画を売却してきた依頼主と同じだ。
松葉は苦い思いを噛みしめながら、目の前の肖像画を手に取った。
「……そもそも、店長は本当に魔除けの力なんてあると思ってるんですか?」
松葉は嫌味半分、依頼を引き受けた張本人を見つめる。店主が口調に生えたトゲを気にしない性格であることは知っている。だからこそ、問わずにはいられなかった。
「魔除けの力があるかはわからないけどね、魔力ならあると思っているよ。人を魅了してやまない魔の力がね。だから、アトリエなんて儲からない仕事をしてるんだし」
不満を口にしながらも肖像画を見つめ続ける松葉は、店主が内心で「君もだろう」と呟いていることなど知らない。
「そりゃあ、店長はそうかもしれないですけど。でも、普通、魔除けの絵画なんて本当に信じますかね……。それに、少しでも価値があがる可能性があるなら鑑定してほしいだなんて。鑑定料だってかかるのに」
もしも、本当に魔除けの力とやらが存在し、この肖像画にその力が宿っているのなら、それは世紀の大発見である。金どころの騒ぎではない。だが、それは万が一、いや、億が一にもありえないのだ。金の使い方を間違えている。
「たしかに、そこは少し変わっているよね。彼、大学生だろう? 興味のない絵画に鑑定料を払うなんて、大人でも珍しい。実はこの肖像画を気に入ってるのかもしれないね」
店主はコーヒーの入ったマグカップを松葉の前に置き、自身の体をソファへと沈めた。
苦みと渋みの混ざった香りが松葉には心地よい。
「本当に気に入ってるなら、売却なんてしませんよ」
「よほど事情があるんだろう。ぼくたちが想像している以上に多額の金が必要だとかね」
「だとしたら、仲のいいお父さまにでも頼んだほうが数百倍マシでしょうね。本当に仲がいいなら、ですけど」
「おや、手厳しい」
話している最中に自分自身がどんな表情をしているのか、それは他人にしかわからない。
店主の愛想笑いに松葉は我に返った。私情は持ち込まない。先ほどそう宣言したにも関わらず、松葉はこの依頼に対して、無意識のうちに私情を持ち込んでいる。
「松葉ちゃんは、まだお父さまとは仲直りできそうにないのかな」
「……父が変わらない限りは」
「だけど、松葉ちゃんにとって唯一の肉親なんだろう?」
「そうですけど……だからって、仲よくしなくちゃいけない法律なんてありませんから」
松葉はコーヒーに口をつけた。この話は終わりだと目だけで店主を制する。
過去、店主のもとに、父親が何度か訪ねてきたことは松葉も知っている。松葉を辞めさせるよう説得しに来たのだということも。だから、松葉自身も父との関係で店主に迷惑をかけている自覚はあるのだ。だが、それとこれとは話が別。他人の仕事を侮辱するような人間と理解しあえるとは思わない。
絵画ひとつで父とケンカ別れをしたくないと言った依頼主に対し、松葉こそ絵画ひとつで父とケンカ別れをした過去を持つ人間だ。
「私情をはさんだのはぼくだったみたいだ、すまないね」
店主は春のひだまりにも似た笑みを浮かべてソファから立ちあがる。アトリエに満ちた重い空気を入れかえるためか、コーヒーの入ったマグカップを片手に窓を開け、ソファ脇へと置いていた紙袋をもう一方の腕に抱えた。
「さあ、仕事に戻ろうか。鑑定は松葉ちゃんの好きにしたらいい。何かあったらぼくが責任を取るからね」
店主は店の奥、作業場へと戻っていく。老紳士の粋なはからいが松葉にはありがたい。
松葉だけが取り残されたアトリエは静寂に包まれた。
窓の向こうから波の音だけが聞こえる。
松葉は渋々机上の絵画へ視線を戻した。
カルド・ワイズマンの肖像、そのキャンバスに描かれた男が挑戦的な笑みを浮かべているように見えて、松葉はむっと口角をさげる。
絵画にも依頼主にも不可解な点が多い上、納得のいかないことだらけだ。だが、仕事として一度引き受けた以上は文句ばかり言っていられない。
「とはいえ、どこから手をつけていいか……」
依頼主は元々この絵画に興味のない青年。彼から得られた情報はあまりにも少なかった。
画家の名前や制作年といった基本的な情報が欠けているのは当然のこととして、この絵の入手ルートすら不明となっては肖像画の過去を追うことは不可能に近い。
鑑定へのモチベーションがあがらない理由はそれだけではない。
根本的に鑑定するほど価値のある絵画かと問われれば、それすらも怪しいのである。
正直に言えば、代々受け継がなくてはならないほど歴史的価値のある絵には見えなかった。
下手な絵だとは言わない。むしろ、表情はよく描かれている。だが、全体としては、資産になるほどのでき栄えとは言い難い。
もちろん、すべての絵画が資産的価値のもとに保管されているわけではない。文化的資料、愛好家による収集、個人的な嗜好……さまざまな理由で大切にされている絵画を松葉は知っている。
それでも、今回の件は特殊すぎる。
どうして依頼人の家族が先祖代々大切に肖像画を受け継いできたのか。何代前の先祖がこの絵を購入したのかは知らないが、本当に「魔除けの力がある」と信じ続けられたのだろうか。
それだけでは、必ずどこかで今回のように受け継がれなくなるはず。
松葉はそっと絵画を傾ける。角度を変えても、肖像画の姿形が変わるわけではない。つまり、特殊な作りによって魔法のように見える――錯視を起こす絵画でもない。
ただの肖像画。名前しか知らない、男の絵画。
――それを先祖代々受け継ぐ? 魔除けの力なんて言葉だけで? 果たしてそんなことがありえるのだろうか。
もちろん、信じてきた人もいるだろうし、飾ったままにしていただけの人もいるだろう。だが、それが偶然だと言うのなら、今回のように引っ越しや代替わりで捨てられてしまう可能性も同じくらいに秘めていたはずだ。
それでもこの絵は受け継がれてきたのである。
そう考えると、ただの肖像画ではないような気もする。
「魔除けの力、ねえ……」
見れば見るほど謎が深まる肖像画に、気づけば松葉は興味をそそられていた。




