19.『ガラリアの海の嵐』 レンブラント・ファン・レイン
「ごめんなさい、まずいことになっちゃったかもしれないわ」
珠子からの電話。開口一番の謝罪に、カタログレゾネを漁っていた松葉の手が止まった。
「アタシ、さっき歌川さまのところへ行ったの。この間、アタシに歌川さまのことを聞いたでしょう? だから、アタシ、あの絵の持ち主が歌川さまだってわかっちゃったの」
さすがは珠子さん。松葉は「おっしゃるとおりです」と素直にうなずく。
だが、それがどうしてまずいことになったのだろう。
話が長くなりそうだ。松葉は分析室を出る。松葉と同じくカタログレゾネで作者を調べつづけている教授の冷たい視線から逃れるため、というのが本音だけれど。
「商談ついでだけれどね、絵のことも聞いてみたの」
つまり、珠子は購入者から直接絵画の入手ルートを聞き出そうとしたわけだ。来歴を調べる最も効率的な方法である。すでに芳樹から聞いた情報で、松葉が気になっている「まずいこと」とは関係がない。
「それで絵画の話を?」
思わず続きを急かすように松葉が尋ねると、珠子も話を進めた。
「昨日、息子さんからも同じことを聞かれたそうよ。それだけじゃなくて、息子さんに絵を譲ってから、急にその絵の話をする機会が増えたって不思議がってたの。それで話が盛りあがってね。歌川さまはアタシに絵画を見せてくださろうとして……」
「まさか」
松葉の全身に嫌な予感が走る。
「その、まさかね。歌川さまは、絵画がなくなったことに気づいた」
電話から聞こえる無機質な音が恐れていた事態をあっけなく告げる。
依頼主は「父に内緒で鑑定してほしい」と言っていたのに。
「歌川さまは、絵が鑑定に出されていると知らなかった。だからアタシ、歌川さまの息子さんが、松葉ちゃんのところへ黙って鑑定に出したんだって気づいたのよ」
珠子は敏い女性だ。展開する推理の正しさに、松葉はただ黙って聞いているほかない。
「歌川さまは、息子が引っ越し前で荷物を整理しているから、どこかへしまったんだろうっておっしゃっていたわ。アタシもそれ以上は言わなかったんだけど……」
珠子は一度息をはき出すと、わざと明るい声を出した。
「気まずくなったから、すぐに帰ってきちゃった。入手ルートも息子さんがすでに聞いたみたいだし。今回はお役ご免だったわね」
「すみません、私のせいで……」
相当気を遣わせてしまったに違いない。元はと言えば、松葉が勝手に動いた案件だ。珠子は何も悪くない。松葉は改めて謝罪する。
「いいのよ。アタシこそ、松葉ちゃんたちの事情を聞かなかったんだもの。それよりも、大丈夫かしら。息子さん、絵画のこと、お父さまに内緒にしているのよね」
大切にしてきた絵を息子に譲った途端、その行方がわからなくなったのだ。父は当然、息子に尋ねるだろう。絵はどうしたのか、と。そうすれば、当然息子の立場はなくなってしまう。ごまかすこともできるだろうが、見せてみろと言われればおしまいだ。
ケンカなんてしたくないと言っていた依頼主の願いは崩れ去ってしまうかもしれない。
何より、父親は相当なショックを受けるはずである。ケンカにならずとも、その関係性が悪化する可能性が高かった。
珠子はそこまで想像し、危惧したのだろう。だからこそ、松葉にも「まずいことになった」と連絡してきたわけだ。
「依頼主の方と連絡をとってみます。珠子さん、わざわざ連絡してくださってありがとうございます」
松葉は、ひとまずこのことを依頼主に伝えなければと会話を切りあげる。
珠子もそんな松葉の気持ちを察してか「うまくいくことを祈ってるわ」と電話を切った。
たった数時間である。
松葉が芳樹から絵画の来歴を聞き、カルド・ワイズマンの下絵が明らかになって、いよいよ正体に近づいてきたと思っていたのに。
「ここまできて、今更鑑定をやめるなんて……」
松葉は滲む悔しさを無理やりに飲み込んで、電話帳から歌川芳樹の名前を探す。
珠子の話によれば、依頼主の父は、まだ完全に絵画がなくなったとは思っていない。それどころか、大切な絵画を売りに出すはずがないと信じているかもしれない。
まだ大丈夫。時間はある。
祈るような気持ちで電話番号をコールする。ワンコール、ツーコールがやけに長い。
「もしもし?」
電話向こうからノイズ混じりに芳樹の声が聞こえた。今日は日曜日、電話をかけてきた午前中はともかく、普通なら大学生の芳樹は遊びやバイトにいそしんでいる時間だろう。
「上村です。先ほどはどうも。度々のお電話ですみません、今よろしいですか?」
「ああ! 今、市役所にいて。もしかしたら途中で呼ばれるかも……長くなります?」
「いえ! それほどでは」
「どうしたんですか?」
芳樹は、父が絵画の行方を疑っているとは知らない。のんびりと答えるその呑気さに、松葉は冷静さを思い出すと同時、少しの妬ましさを感じた。
「実は、少し問題が……」
「問題?」
「お父さまが、絵画がないことにお気づきになられたようでして」
「は⁉」
「まだ、ないと確証を持たれたわけではないかと! おそらく、引っ越し荷物にまぎれているとお思いになられている段階だと思いますから!」
なんとか芳樹をなだめようと、松葉はまくしたてるように状況を告げる。珠子から聞いた経緯を簡単に要約しつつ、今後について話そうとしたところで、「それじゃあ」と芳樹が話を遮った。
「鑑定はもういいんで、一度、僕に絵を返してもらえませんか? 絵を見せれば、父も安心するでしょうし」
まだ鑑定中だ。しかも、謎は解けていない。画家がわかれば、魔除けの力についてもわかるかもしれない。ゴールはもう目前なのだ。
松葉が渋れば、スピーカー越しに呆れたようなため息が聞こえた。
「そもそも、魔除けの力なんて本当にあるわけないじゃないですか……。あ、ごめんなさい、僕、呼ばれたんで行ってきます。とにかく、絵は一度返してください」
ブツリと一方的に電話が切れる。芳樹のひどく冷たい声が松葉の心に突き刺さった。
「どうしよう……」
電話を見つめ、呆然とする松葉に「どうしたん」と声がかかる。
白衣のポケットに両手を突っ込み、分析室の扉にもたれかかった教授は、とても人を心配している態度とは思えない。だが、彼の表情は真剣だった。不器用なりに気遣っているつもりらしい。
「ちょっとトラブルがありまして……」
「トラブル? 絵画の鑑定にトラブルもクソもないやろ。金か? 今更になって鑑定料が支払えへんとか依頼主から言われたんとちゃうやろな」
「いえ! そういうことでは! ただ……」
松葉の煮え切らない態度に、教授が「はっきり言え」と彼女を睨みつけた。
松葉がことの経緯をはじめから簡単に説明すれば、教授は大きなため息をひとつ。
「どうするつもりなん」
「もう少しで、カルド・ワイズマンの正体がわかるはずなんです。だから、依頼主の方にもう一度お願いして、引っ越し荷物に入れたと説明してもらえれば……」
「あほ。人に嘘をつかせるんか」
松葉は自らの浅はかな考えを真正面から指摘されて顔が熱くなる。教授の言うとおりだ。
「君のええところは、好奇心と責任感があるところや。やけどな、それは行き過ぎたら悪いところにもなる。今回の件はええ勉強になったと思うことやな」
「でも、まだ鑑定が」
「でも、やない」
教授は「あんなあ」とひときわ冷たい視線を松葉に向けた。
「はっきり言うで。依頼主は鑑定結果なんかに元々興味はあらへんねん。これ以上、鑑定を続けてなんになる?」
「それじゃあ、カルド・ワイズマンの肖像はどうなるんですか⁉ 結局大事なことは何もわからないままだし、こんな状態で売値をつけるなんて……。鑑定士として絵の価値を正しく見出せてもいないのに、適当な値段をつけろって言うんですか⁉」
「君の言うとおり、俺らは鑑定士や。絵の価値を見出してやるんが仕事やけどな。その仕事を成立させてるんは、あくまでも依頼主やってことを忘れたらあかん。これ以上は、君のエゴや。ちゃうか?」
教授は分析室に戻ると、松葉が開いていたカタログを閉じ、分析装置を止めた。
「ちょっと!」
松葉の制止も聞かず、彼はキャンバスを分析装置から取りはずして額縁へとしまいこむ。さすがは教授だ。長年絵画を扱ってきただけのことはあって、絵画は流れるようなスピードで片付けられていく。
「教授は悔しくないんですか⁉」
わめく松葉に、教授は肖像画を押し付けた。飄々とした彼の流し目には珍しく強い光が灯っていて、普段はゆるく持ちあがっている口角も今は真一文字に結ばれている。
「……この時間なら、まだ新幹線もあるわ。鎌倉に戻り」
「なんでそんなこと!」
「落ち着き」
教授は一拍置いて、松葉をじっと見つめる。
「深呼吸してみい」
声を荒げるあまり、松葉は肩で息をしていたらしい。教授に言われるがまま、ゆっくりと息を吸って、はく。単純な作業だが、三度も繰り返せばあっという間に自分を振り返ることができる。松葉は明らかに興奮していて、自分の気持ちや状況をうまく整理できていない。そのことにすら、松葉自身、気づけていなかった。
「依頼主に返したあと、この絵が一生見られへんわけやないやろ。どうせ、依頼主かって父親にちゃんと絵があるって見せたらしまいや。そのあとはまた君のところが買い取るんやから、鑑定でもなんでもじっくりしたらええ」
教授は松葉の肩をガシリとつかみ、体ごと松葉を回転させる。分析室の外まで松葉を押しやると、部屋の鍵も閉めてしまった。ガチャンと古い機械式のロック音が響く。
「それだけやない。この絵はもう、何もわからん絵やないやろ。制作年も、制作場所も、下絵もわかった。こっから先は特別な機械なんかいらん。君の知識と経験だけで、その絵の正体は明かせるはずや」
「……それは……」
「なんや、俺がおらんと自信がないんか?」
教授はニタリといつもどおりの笑みを浮かべて歩き出す。
「結果、楽しみに待ってるで。ああ、あと、いつでも雇ったるからな。その連絡も待ってるわ」
教授のあっさりとした引き際が、松葉をより冷静にさせる。背を向けられて、彼がどんな表情で言っているのかわからないことが、言葉の意味をダイレクトに感じさせた。嫌味な表情が見えていたら、松葉も食ってかかっていたに違いない。
――教授だってきっと悔しいに決まってる。
だが、この依頼はあくまでも松葉が受けた依頼だ。それに加え、客である依頼主からの要望もある。鑑定のチャンスだってなくなったわけじゃない。
教授はすべてを理解して、松葉に託したのだ。自らの鑑定士としての興味は殺し、あくまでもひとりの協力者として、教授として振舞った。
彼の思いや覚悟を、それ以上松葉がとやかく言えるわけがない。
松葉が返事をしなかったからか、教授は足を止め、松葉の方を振り返る。
「安心しい。君ならできる」
ニカッと笑ったように見えた表情は、何の嫌味や曇りもなくて。
――悪魔みたいで、人の気持ちなんか微塵も知らないようなふりをして、お金だってせびる癖に。普段はうるさいのに、こんなときばっかりずるい。
松葉は自分よりも数段大人な教授を認められず、
「……普段からそうしていれば、もっと教授もおモテになられるんでしょうね」
精いっぱいの皮肉で返す。教授は
「こういうときは、素直にありがとうって言うもんや」
と笑った。




