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絵画鑑定士は謎解きがお好き  作者: 安井優


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16.『オフィーリア』 ジョン・エヴァレット・ミレー

 閉館の鐘、松葉は後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、教授のもとへ戻る。思わず構内を走ってしまう程度には興奮していた。


 はやく、はやく、はやく!


「教授! わかりました!」


 松葉は肩で息をする。開け放たれた分析室に夕暮れの橙が差し込んだ。


「答え合わせは必要なさそうやなあ」


 顕微鏡から目を離した教授は椅子を半回転させ、松葉の確信めいた表情にうなずいた。彼の頭にはサングラスがのっている。当然、松葉がそれを見逃すはずがない。


「って! もしかして分析してるんですか? 勝手に分析しないでって言ったのに!」

「謎解きはしといたるって言うたやろ? それに、これは分析やなくて確認や」


 教授は再びくるりと椅子を回すと、サングラスを目元へ下ろしてマウスをクリックする。教授の後ろに置かれていたレーザー顕微鏡が独特の機械音を奏で、光を照射した。


「私の仕事なのに!」


 松葉が抗議の声をあげるもむなしく、コンピュータの画面には分光器の測定結果がグラフとして出力され始める。


「なんや、最初はあんなに信じられへんとか言って渋っとったのに。いつの間にやる気になったん?」

「それを言うなら教授もでしょう! 魔除けの絵画なんてありえないってバカにしてたくせに!」

「俺はただ、君が調べもんをしてる間にできることをやっといてあげたほうが効率的やと思っただけや。X線だけじゃ推測の域を出んやろ? その点、分光器ならアクリル絵の具かどうかまでわかるねんから、君の鑑定にも役立つんやし」

「効率的とか言って、教授も気になってるだけじゃないですか」


 松葉は教授の隣に腰をおろし、顕微鏡の結果を示すモニターを覗き込む。そこにはしっかりとX線分析器の結果を裏付けるような波形が表示されていた。


「有機顔料の波形とは明らかに違う……」


 十九世紀以降、発色性のいい有機顔料が開発されてから、多くの絵画には有機顔料が使われるようになった。


 だが、このグラフが示している波形は鉱物由来の無機顔料のもの。つまり、カルド・ワイズマンの肖像には有機顔料は使用されておらず、それはすなわち、有機顔料が存在していなかった時代に描かれたものであるということを裏付けている。


「これで、君の推測は科学的根拠に基づいた断定に変わった。分析器の結果とも一致する」


 教授の言葉に、松葉の心臓が大きく高鳴った。


「……カルド・ワイズマンの肖像は、十九世紀よりも前の絵画で間違いない」


 自然とこぼれ落ちた言葉。鑑定士として誇らしい結果だ。


 絵画の鑑定において、何かを積極的に断定することは難しい。それもそのはず。絵画の鑑定は人間の感性による分析に大きく依存するからだ。画風や技法といった推測から理論立てることはできるものの、誰が見ても客観的に判断できる科学的証拠は絵の具の分析結果だけ。ゆえに、多くの絵画は「Aではない、だからBの可能性が高い」といったような消極的断定や消去法によってのみ鑑定結果を下されることになる。


 仕方のないことではあるが、そうした鑑定を続けていると、だんだんと自らの下した結果に自信が持てなくなっていく。言いわけじみた文言を並べているような気分で、松葉も自己嫌悪に陥ってしまうときがあるくらいだ。


「久しぶりにすっきりしました」

「ま、君は今、この絵画の制作年を断定したわけやから、その発言には責任を負う覚悟が必要やけどな」


 断定するということは、その判断に絶対的な責任を持つということ。


 鑑定依頼を受けた当初こそ、依頼内容や絵画には懐疑的だった。だが、今は本気で鑑定に取り組んでいるつもりだ。松葉自身、ここまでやってきた自らの腕と、今回の鑑定方法に間違いがあったとは思わない。


 鑑定士の誇りと責務をかけて、この絵画に価値をつける覚悟はとっくにできている。


「もちろんです」


 松葉が力強くうなずくと、教授は今日初めての穏やかな笑みを見せた。


「百点や」


 教授は仕事を終えたと言わんばかりに大きく伸びをして、顕微鏡を片付け始める。


「今日は終わりにしよか。正体不明の絵画が、今日一日で制作年と制作場所のわかる絵画になったんや。充分働いたで」

「え! まだ画家もこの絵の詳細もわかってないですよ」

「あほか。働きすぎやって言ってんねん。俺は休み返上で働いてるんやぞ。本業をやっとるだけの君とは違うんや」


 教授は手際よく肖像画を額縁にしまいこむと「行くで」と松葉の背中をたたく。


「アトリエから協力金をもらってるって、以前おっしゃってましたよね?」


 店主の話によれば、協力金は渡していないという。カマをかけるように松葉が教授の背中に問いかけると、彼は振り返ることなく答えた。


「もらっとる。でも、今日の分はしまいや」


 ――ボランティアならボランティアだと、だからこれ以上は付き合えないとはっきりそう言えばいいのに。この人には何のプライドがあるのだろう。


「……嘘つき」


 松葉の呟きに、教授が鼻で笑ったのがわかった。


「ああ、そうや。一個、おもろいことを教えたる」

「おもしろいこと?」


 続きを待っていると、教授はちょいちょいと松葉を手招きする。聞きたければこちらへ来い。そんなジェスチャーに仕方なく松葉が分析室を出ると、教授の腕が突如、彼女の首下に伸びた。


「ちょ……」


 いわゆる壁ドン。突然縮まった距離。くすぶるタバコと少し甘めの香水の匂い。顔が迫る。松葉が目を見開くと同時、背後から扉と鍵が閉まった音がした。


 カチャン。


 その音ひとつで松葉は現実に引き戻される。


「あ、ちょっと⁉」

「仕事を終わらせる方法のひとつや。君がサラリーマンに転職して、長い会議があったら使うとええで。会議室を物理的に施錠すんねん。覚えとき」


 教授は鍵をくるりと指で回して見せる。


「サラリーマンには転職しませんから」

「なんや、君のお父さまは公務員やろ。転職するならそこやんか」

「絶対にしませんから! っていうかおもしろい話は⁉」

「今の、おもろかったやろ。ライフハックっちゅうの? ええこと聞いたって感じやん」


 教授はにたりと笑みを浮かべて、「ほら、帰るで」と鍵を白衣のポケットにしまい込んだ。

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