12.『ばらをつけた女』 ピエール=オーギュスト・ルノワール
「帰ったで。さすがにもうわかったや、ろ……」
教授の声に松葉は顔をあげる。薄暗い教授の研究室で絵画に向き合い、どんよりとした表情を浮かべた松葉に「げ」と教授は口元をひくつかせた。
「君なあ……まさかずっと考えとったんか? しかも、そんだけ考えて答えなし?」
「うるさいですよ」
「おお、おお。俺の優しさを無下にしよって。何分暇つぶしてきたったと思ってんねん」
松葉が時計に目をやれば、三分どころか一時間以上が経過していた。考えごとと鑑定を続けていた松葉は、自らが時間感覚を失っていることに気づく。
「まあ、しゃあないな。君、美術史のテストはいっつも赤点ギリギリやったんやろ」
「なんで今そんな話!」
松葉が聞きたくないと耳をふさぐと、教授の悪魔的笑声が手の隙間から鼓膜を揺らす。
「いつまでもここにおられても困るし、ヒントやるから自分で考え。この肖像画がどこで生まれたか? 君が見つけた手がかりから、それも推測できるはずや」
「えっ⁉」
教授からの思いがけないヒントに松葉が目を輝かせると、彼は「昼、行くで」と外を指さす。
「俺、ハイボールが飲みたい気分やわ」
「仕事中ですよ」
「大事な春休みを返上してまで君のために働いてるんは誰やろなあ。君に鑑定のヒントまであげて、なんなら分析室まで使わせてもらえるように交渉して来たったんやけどなあ」
「……わかりましたよ!」
松葉が「もう!」と声をあげると、教授の笑い声が再び部屋に響く。
松葉は自分の財布をあわてて開いて残額を確認した。
昼から飲めて、松葉が払えるところとなれば向かう先はひとつ。大学から徒歩三分の中華料理チェーン店。ここの大学生の多くが世話になっている。もちろん、松葉もお世話になったひとりだ。
教授とふたり、連れ立って校舎を出る。
「京都って寒いですよね」
春を前にして吹く風に松葉が呟くと、「鎌倉も寒いやろ」と教授のツッコミが入った。
「ええ加減、京都でやったらどうや? 俺もそろそろ助手がほしいと思ってな、絶賛募集中やねん。君やったら雇ってやってもええよ」
「遠慮しておきマス」
「なんで片言やねん。こんだけ仲ようしたってる俺より、あんだけ大ゲンカした親父さんのおる鎌倉のほうがええってか?」
「もう、またその話ですか。昨日からくどいですよ」
「俺は正直、君の将来を心配してるんや。こんな変な依頼を受けなあかんくらい、金に困ってるんやろ」
「だから、受けたのは私じゃないですってば」
「でも、金があったら君は断っとったはずや」
「それはそうですけど……」
発端はそうだ。だが、正直、今となってはその気持ちも薄れつつある。あの肖像画の謎を解きあかしたいと思い始めていることに気づき、松葉はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「俺は優しい教授やからな。君は大事な教え子やし、それに」
「上村穂仲の娘だから、ですか」
昨晩の会話のせいだろう。松葉の口からは思わず母の名が飛び出していた。
松葉自身も驚いたが、話を遮られた教授も驚いたようだ。いつもは切れ長の目が大きく開いている。
一拍置いた教授のため息が、車道を走っていた軽トラの排煙にかき消された。
「そんな話はしてへんやろ。たしかに、穂仲さんは世界でもトップレベルの芸術家やった。芸術家やったら憧れて当然やし、彼女の死は残念なニュースやったよ、今でもな」
教授は「でも」と松葉を見つめる。彼の瞳には、松葉以外映っていない。
「それとこれとは話は別や。俺にとっては、君が穂仲さんの娘やろうが関係ない」
教授は足早に松葉を追い抜いた。
「自分で墓穴掘るような、あほなことは言わんほうがええ」
優しい口調だった。
だからこそ余計に、先ほど教授が強調した「俺にとっては」、そのひと言が松葉の胸を静かに、したたかに突き刺す。
「父にとっては」上村穂仲は生涯愛する妻であり、松葉は彼女との間に生まれたひとり娘なんだと暗に告げられている気がした。
「……わかってますよ」
だから、アトリエに迷惑をかけられようが、大ゲンカ中だろうが、松葉は結局父親のことが気になって鎌倉から離れられないのだ。男手ひとつで育ててくれた父を気にしないで生きていくなんて松葉にはできない。
父は芸術家の妻と、その妻の死と、そして娘である松葉を強く結びつけている。だからこそ、松葉を芸術の世界から引き離したいのだろう。
松葉はそのことにも気づいている。そして、それが間違っているということも。
「教授は全部わかってるくせに、私をスカウトしてくださるんですね」
「君はちょうどええ。技術も勘も悪くないからな」
突然褒められて、松葉は「え」と目を丸くする。教授がどんな顔で言ったのかが気になって、彼の隣へ並ぶために松葉が歩調をはやめると
「扱いやすいし、安い給料でも働いてくれそうやし、便利やからなあ」
教授はすべてを無に帰す言葉を付け加えた。
腹いせに、松葉は目の前に迫っていた中華料理チェーン店までダッシュして扉を思い切り開け放つ。後ろから遅れてきた教授の無駄に整った顔にちょうどぶつかればいい。そんな思いを込めて。
「あぶなっ⁉」
教授のすっとんきょうな声が聞こえたが、因果応報だ。
松葉は教授をおいて店員に人数を告げ、奥の席を陣取った。もちろん、水なんて入れてやらない。ピッチャーから自分の分だけを注ぎ入れて、遅れて来た教授には空のコップを差し出す。
「君、もう更年期なん? それとも生理ちゅ」
「セクハラで訴えますよ」
「冗談の通じひんやつ」
教授はいそいそと自らのコップに水を注ぐ。ガラガラと氷の混ざる音と、店内の注文を繰り返す大きな中国語、ランチタイムを楽しむ客の会話が自然とふたりの間に積もる。
「餃子とハイボール。あ、極み炒飯も。君も飲む?」
「飲みませんよ。餃子と天津飯で」
教授は、気まずさゆえに生まれる空虚な溝の埋め方がうまい。
松葉は呼び出しボタンを押す。どこまでもいけ好かない教授を視界に入れないよう、体ごと顔を店内へ向けて。




