10.『ミラノの貴婦人の肖像』 レオナルド・ダ・ヴィンチ
「なんもわかってへんやんけ!」
翌朝。肖像画についてわかっていることを説明する松葉に、教授の怒号が飛んだ。
教授の研究室には松葉と教授だけ。大声を出す教授をとがめる人はいない。
「だから、最初からそう言ってるじゃないですか!」
松葉が応戦すると、教授はわざとらしいほどに息をはく。
「君、ようこの依頼を引き受けたなあ。ほんま、おもろい依頼ばっかりでうらやましいわ」
「仕方ないじゃないですか。今、あのアトリエを追い出されたら困るし……。そもそも、依頼を引き受けたのは店長であって、私じゃないですから!」
「やとしても、や。絵画の名前しかわからんなんて、ただの鑑定じゃすまへんぞ」
「ただの鑑定ですむなら京都まで来てません」
松葉はイーゼルに立てかけられたキャンバスを見つめる。絵画の中のカルド・ワイズマンは相変わらずどこ吹く風で斜に構えていた。
教授は後ろで無造作にまとめた髪も気にせずガシガシと頭をかく。気持ちの整理がつかないままの手で、彼は白衣のポケットからタバコを取り出した。キャンバスの横を通りすぎたかと思うと窓を開け、タバコに火をつける。構内は禁煙だ。教授には関係ないらしい。
手入れが行き届いているとは言い難い中庭、奔放に育った木々を縫った風が室内に流れ込む。じき春が訪れることを告げるように、窓際に植えられた桜の木には小さなつぼみがついていた。
学生の声が聞こえる。授業のない土曜日でも、大学構内は学生で賑わっている。特に今は卒業制作の追い込み時期だ。絶叫やお経が日常に溶け込み、変なまじないがそこら中で流行していて、廊下には血痕にも似た絵の具が飛び散っている。
久しぶりの母校だが、鑑定のたびに訪れている松葉には感慨深さなど感じられない。
萎えたと態度で示す教授をなんとかなだめようと、松葉は「でも」と彼に声をかける。
「来歴はわかるかもしれません。今、依頼主と知人に調べてもらっているところなので」
「当たり前や。それくらい調べてもらわな、さすがの俺も困るわ」
来歴――絵画が誰の手を渡り歩き、どんな旅をしてきたのか――それがわかれば、おのずと最後は作家にたどり着くことが多い。そうでなくても、無名の作家が描いたものか、それとも名だたる作家の作品か、それくらいは判別できる。
特に、この肖像画は家族が代々受け継いできたものだ。珠子の話によれば、依頼主の父親は絵画好き。肖像画の来歴を知っている可能性が高い。あとは依頼主の青年、歌川芳樹が父親からどれだけ情報を引き出せるかが鍵になる。
珠子にも、歌川家が過去に行っていた輸入雑貨の仕入れを調べてもらっている。そこに肖像画がまぎれ込んでいれば、来歴は明確になるはずだ。
順調にいくかどうかは別だが、来歴調査はすでに手を尽くしたと言ってもいい。
「……で? 制作年がバロック時代やって根拠は?」
教授は気だるげにタバコの煙をはき出した。肖像画でも松葉でもなく、ただ遠くを見つめている。彼が考えごとをしているときの癖だ。
どんなに優秀な鑑定士であろうと、肖像画をひと目見ただけでは制作年を特定することは不可能。だからこそ、松葉が制作年にあたりをつけた理由を、教授も考えているのだろう。
松葉も隠すつもりはない。バカにされるかもしれないが、素直に答える。
「魔除けの絵画だって言ったじゃないですか。それが根拠です」
「……はあ?」
教授の声が曇る。
松葉が珠子との会話を要約すれば、教授も表に出していた剣呑さをしずめた。
魔女裁判と魔除けの関係性。カルド・ワイズマンの名前から導きだされるイタリアとの関係性。どちらをとっても作品背景の筋は通っている。肖像画に使われている技法も、ややこじつけ気味ではあるが、バロック時代の特徴をいくつかおさえている。
覆せるだけの証拠がない以上、教授とて松葉の意見をそれ以上は否定できないらしかった。
「ひとまず、話はわかった。ありえん話ではないな。君のドヤ顔がムカツクけど」
教授はようやくタバコを携帯灰皿におさめる。やる気を取り戻してくれたようだ。教授の肖像画を見る目も、心なしか先ほどより熱くなっている。
「始めましょう」
松葉が鑑定用のビニール手袋を渡すと、教授は渋々それを受け取る。表情とは裏腹にビニールの音はパチンと軽快に響いた。
温湿度計をチェックして、松葉は開け放たれていた窓を閉める。カーテンも半分ほど引いて、直射日光が肖像画に当たってしまわないよう細心の注意を払った。
教授から最初に教えてもらった絵画の扱い方。学生時代に散々うるさく言われたおかげで、今ではすっかり身についている。
「君のそういうところ、好きやわあ。誰に習ったん? ええ先生やなあ」
「私が入学した当初は、優しい教授がいたんですけどね」
松葉は教授の激しい自己主張を軽く流して、キャンバスをイーゼルから取りはずす。
まずは肖像画をおさめている額縁をはずさなければならない。依頼主が持ち込んだ日、店主が裏面を見るために一度フタを開けたがそれ以来だ。
松葉は留め具を回し、額縁の裏ブタを取りはらった。
本来であれば何かしらのサインや制作年が刻まれていてもおかしくはない。
だが、店主が確認したとおり、そこには何も書かれていなかった。
「これは、これは。画家もモデルも謙虚なこっちゃ」
「カルド・ワイズマンってこの肖像画のタイトルすら、言い伝えレベルですからね」
松葉はゆっくりと息をはいて、額縁と肖像画の隙間に指先をかける。
何度経験しようとも、額縁から絵画を取りはずす瞬間は緊張する。たっぷりと息を吸って止め、そっと絵画を持ちあげた。
カコン。
やわらかな木の音がひとつ、教授の部屋に響く。
松葉はしっかりとキャンバスを抱え、イーゼルに立てかけた。
「これが、カルド・ワイズマンの肖像……」
荘厳な装飾を失ったカルド・ワイズマン――その全貌は一層わびしく、けれど、どこか目を離すことができないような、独特の空気をまとっていた。




