ドブネズミのスワンソング23
「素早いな……」
鞭の雨を降らせながら、奴は更に動く。
大玉転がしを思い出すような、無数の触手に支えられた球状のそれが、逃げる俺たちを負うように距離を詰めてくる。
「どうしますか……!」
「そうだな――」
そこで中断――会話も思考も。
奴が不意に着地して、その球体を体から離す。
と言っても、足の辺りから下は繋がったまま、それ以外の部位が、水をこぼしたように一斉に床へと広がっていく――じゅうじゅうと焼けるような音と白い煙を上げながら。
直感:あれに触れれば無事では済まない。
「まずは逃げるぞ!」
と言って、広がるスピードはかなり速く、そして範囲も広い。
それはさながらスライムの津波。走って逃げたとて、その範囲外に無事に出られるかは不明だ。
「なら……ッ」
再び方向転換。先程踏み台にしたテーブルにまたも飛び乗る。
「ほう……っと!」
こちらに気づいた奴がその細長い顔をこちらに向け、それと同時に天井に逃げていたシラの放った蛇が頸動脈を狙って飛び掛かった。
「ふん、油断も隙もないな」
直前で足元のスライムが立ち上がって盾となり、蛇を受け止めている。
液状というかゲル状と言った方がいいだろうスライムでは弾き返すことは出来ないが、どうやらその中に入った物体に力を加えることができるようだ。シラの蛇は方向を逸らされ、明後日の方向に飛び出していた。
「くっ!」
「そこだな!」
そしてその蛇を辿るように、一本の触手がシラを狙って飛び上がる。
――その交錯する一瞬だけでも、こちらから目を離してくれたのは幸運と言うべきだろう。
「この野郎!」
胸嚢から取り出した目くらましを砥石に叩きつけるようにして削り、発熱したそれを奴に向かって放り投げる。
かつてエルバラの山の中でマイコニドたちに使ったそれ――正確には専用やすりに叩きつけて使う即発バージョン――は、今回も遺憾なくその性能を発揮した。
「クソッ!!」
一瞬視界を奪われた奴の動きが止まる。
すぐに追撃が来る――そう判断したのだろうという事は、すぐにこの部屋中への侵攻を中断して主を再び包み込もうとするスライムの動きが物語っている。
なら、こちらのチャンスと言う訳だ。
「シャァッ」
投じた勢いのまま、再びテーブルから飛び掛かる。
その音に反応したか、眩んだ目を手で覆いながら、全身に纏おうとしていたスライムの形状を変化させて、自身の正面=斬りかかって来るのと上から襲い掛かってくる二人の敵の方向に集中して壁を作ろうとする。
――つまり、それ以外は丸裸に近い。
「シラ!」
「任せて!」
その事は、奴より先に視界を取り戻したシラにも分かっていたようだ。
体を支えるために使っていた柱――恐らくそれの影に入っていたお陰で目への影響が小さかったのだろう――から、奴のすぐ近くの柱まで飛び、すぐさま別の蛇が直下の敵へと急降下を開始。
スライムドームが完成するよりも一瞬早く、薄っすらとしかカバーしていない奴の頭上のスライムを、シラの蛇が貫いた。
「捕まえた!!」
シラが叫び、蛇がしなる。
その先端には、首を絞めつけられた奴の姿。
まさしく一本釣り。
スライムの海から釣り上げられたその主は、しかし直ちにリリースされた――奥の壁に向かって、投石機の如く。
「がぁっ!!」
鈍い音と、それに混じる奴の声。
命中時に背中に発生したオレンジ色の光は、恐らく俺の護符のようなアイテムを使って防護魔術を自らに施していたのだろう。
「……ッ!!ぉ……ッ……ゴ……」
声にならない声、音にならない音がそれに続く。
命があったどころか体が四散しなかっただけ幸運と言うべきダメージだというのは、それだけでよく分かった。
「ナイス」
降りてきたシラとハイタッチを交わし、戦果確認。
奴は最早立ち上がることもできないのだという事を、新しい関節が産まれたように歪に折れ曲がった奴の両足が物語っている。
「終わりだ」
「ぐ……ぉ……」
恐らく肺の中の空気が全て絞り出されている。
強い衝撃を受けた時の常だが、一瞬で呼吸が止まるのだ。
この男に称賛するべきところがあるとすれば、その状況でも抵抗を試みたという事だろう。
「ッ!!」
袖の中に潜ませた飛び出しナイフ。それをシラめがけて投げつける。
――それを刀身で撃ち落としたのは、先程の借りを返したことになるだろうか。
「諦めろ」
明後日の方向に飛んでいったナイフを脇目に見ながら、奴に切っ先を向ける。同時にシラの蛇たちも鎌首をもたげた。
お前なんかいつでも殺せる――沈黙を守りながら、最も雄弁に語る蛇の頭。
「……ック、ゴホッ!ハッ……ハ、ハ、ハ……」
ようやく呼吸が戻ったのだろうそいつは、しかしむせ返りながらそれに笑いを返した。
「どうした?」
「……馬鹿ども……、俺の……仕事……十分だ」
同時に、遠くで何かが爆発する音が響いてきた。
「どういう意味だ?」
「相棒……仕事を……」
「相棒と言うのは、この方ですかな?」
六つの目が一斉に向いたのは、上座側の壁――が靄のように消えて現れた廊下。
そしてそこから現れたヴィルヘルムさんと、彼が連れていた一人の捕虜だった。
後ろ手に縛られたそれを歩かせながら、ヴィルヘルムさんは俺たちの方に目をやる。
「いやはや、流石の性能ですな。この賊も、私の生み出した迷宮にまんまとかかりました」
ジェルメが売ったナヅキ虫がもたらしたのは、壁や通路の幻影を見せる能力。
と言っても、当然ただの幻術ではない。
むしろ分類で言えば召喚術に近いだろう。実際に質量のある幻影を生み出し、必要最小限の通路と部屋を除いて、この屋敷の中一帯を迷宮化していたのだ――ちょうど、彼が出てきた廊下を隠していたようにして。
「進みたまえ」
そしてその功労者は、その術中にはまった侵入者の女を首尾よく縛り上げていた。
その手に持ったステッキには、恐らく鉛を流し込んである。
「それにしてもゴーダ、いや、ゴーダキヨトでしたか?あなたのお友達はとても親切でした。私の知りたかった事を全て丁寧に教えてくださいましたぞ」
そう言って、彼は唖然としているゴーダ。恐らく郷田清人とかその辺の名前のそいつの前にその“親切な女性”を座らせる。
「ぁ……ぅ……」
「ラーキ!」
そのラーキという女の親切さを引き出したのが何であるのかは、彼女の全身の傷と、元がどんなものであれ二度と女として扱われることがないであろうと自信を持って言える程に変形させられた顔が物語っていた。
恐らくだが、ヴィルヘルムさんが手に入れたのはこの屋敷を迷宮化する能力だけだ。
――流石は魔術やらスキルやらが存在する世界だ。強い執事まで実在するとは思わなかった。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
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