ドブネズミのスワンソング21
「はぁ……はぁ……」
今日はよく走る。
折角落ち着き始めたところでまた全力疾走。今自分がどこにいるのかさえ分からない路地の中で、全身の全てを入れ替えるように大きな息を吐きながら、屈みこんで喘ぐ。
「はぁ……はぁ……」
路地の向こうに僅かに見える上層の壁。
その向こうにみえるのはベナティフ家のお屋敷。
自分がどこにいるのかさえ分からないような状況でも、そこだけは分かる。
「はぁ……」
そこから目を逸らすように、体ごと向きを変えて地面に仰向けになった。
ポンプ塔を視界に入れながら、冷たい地面の感触に身を任せる。
俺には出来なかった。
上層の襲撃なんて大それたことのために爪に火を点して貯めた金で能力を買い、しかし同胞団のやり方に反発し、一念発起して反旗を翻し、その結果こうしておめおめと逃げた。
「ちくしょう……」
声は出た。
でも、それ以外の部分は逃げ切ったことを喜んでいる。
その事が余計に情けなくて悔しくて、それと同時にどうしようもなく捨て鉢な気持ちにさせる。
元から無理な話だ。
俺は英雄なんかじゃない。ただのルクチャ売りだ。
虫を買って、能力を手に入れて粋がったところで、ただの凡人じゃないか。
子供のころ、昔話の英雄に憧れて、木の剣を持って駆けまわっていた時と何も変わりやしない。
俺もいつかは――誰もが抱くその想いを、これまた誰もが通る道として諦めた。俺は所詮凡人で、ルクチャ売りの子に生まれた以上ルクチャ売りになるぐらいしか道はない。
そうだ。それが俺の人生だ。
そういう風にしたのはこの町で、この時代で、この世界だ。
子供のころに分かっていたことを、何で今になってもう一度やらなきゃならないんだ。
恥?知った事か。大きな仕事をさせたいのなら、それに見合った能力を渡せばいい。それをしなかったのはこの世界なのに、どうして今更になって俺の方から自分でわざわざ頼まれもしない仕事をしなきゃならないんだ。
理不尽な言い訳。だが、今俺の直面している問題だって十分理不尽だ。
「……」
体を起こす。
もういい。逃げちまおう。
最初に考えていた通り、荷物を纏めてこの町を出て、能力者として生きて行こう。
フィーナ様も同胞団も、もう知らない。俺には俺の人生がある。第二の人生を始めよう。
どうせここで生きていたって、つまらないルクチャ売りが関の山。そういう人生しか用意されていない世界がどうなろうが、俺の知った事じゃない。
「そうだよ……どうでもいいじゃないか」
自分に言い聞かせて立ち上がり、尻についた土を払う。
悪いな皆。俺はもう逃げる。
お前らも、歌巫も、恥も、誇りも、同胞団も、ルクチャ売りも、上層も、下層も、もう何もかもうっちゃって、おさらばする。
後はお前らが勝手にやればいい。どうぞご自由に。お先に失礼。
そしてバイバイ、フィーナ様。貴方の事は好きだった。でももう関係ない話だ。
結局あなたは俺の人生の部外者だ。遠くに見えて、決して手の届かない存在、蜃気楼というよりも、月や星のような存在。そこに存在することは確かなのに、なのに近づく手段は永遠にない存在。
だったら、ここですっぱり忘れちまう。
一度決心がつくと、後はもう簡単だ。俺のするべきことは、ここの路地を抜けて家に戻り、荷物を纏めて町を出ること。そのためには上手い事同胞団の追撃をかわさなければならないが、まあいい。キターキ以外の連中なんてどうとでもなる。
「ッ!!」
そこまで算段したところで、そのどうとでもならない唯一の存在が、路地の向こうに姿を現した。
「逃げたか……」
辺りを警戒しているが、こちらを見つけた様子はない。
やがて俺の捜索を打ち切ったのだろう、くるりとこちらに背を向けて、ポンプ塔の方へと歩き出す。
あのポンプ塔を登れば、問題は射程だけだ。あの塔の頂上からなら上層へも射線が通る。
「どうでもいい……」
だがきっと、この夜の光景は一生俺の記憶に残るだろう――恐らく後悔として。
「……」
自分の胸を鷲掴みにする。
己がどうしたいのかは分からない。
どうするべきかは分かっている。このままこのチャンスを活かしてこの場を離れ、家に戻るのだ。
だがその場合に待っているのは、ほぼ確定した後悔の人生。
「……」
どうするべきかは分かっている。
どうしたいのかは分からない。
どうしたくないのかも分かっている。
「……ッ!!」
一個だけ、奴を止める手段がある。
近距離でも遠距離でも、普通の攻撃では倒すことができない奴を。
奴が背中に戻したクロスボウの鏃が、反射を抑えるために塗り込んだのだろう炭によって、奴の背中に影となって踊る。
肉食獣の牙のようなそれは、人体に当たればどうなるかなどどれほど想像力に乏しい人間でも簡単に分かるだろう。
あれがフィーナ様を貫く。俺の憧れた人を。俺の人生をここまで続けさせた人を。俺の家族を助け、俺を助け、俺の慰めになってくれた人を。
「……」
奴を止める手段がある。
どうするべきかは分かっている。
「誰に誇れなくてもいい――」
その言葉を口の中で唱える。
きっと誰にも誇れない。俺は裏切り者で、しかも暴動を起こした一味だ。フィーナ様も、まさかこんなことが起きているとは思うまい。
ふっと、軽く腕を振る。
俺の想いを汲み取ったようにたった一つだけ現れる光。
蛍のように輝いていたそれは、今ではナナフシのような足を伸ばして、俺の腹にしっかりとしがみついている。
「……意外と重いなお前」
まあいい。あと少しだけ落ちなければそれで。
背中に当たる部分が瘤になって盛り上がり、そこから放たれる赤い光に照らされて、俺は奴に狙いを定めて踏み出す。
「ッ!」
路地から飛び出す瞬間、肩が何かにぶつかった。
がらんと大きな音が鳴って、反射的に奴がこちらに振り返る。
「うあああああっ!!!」
だが止まれない。奴がナイフを抜こうが、そこに突っ込んでいく。
「っ!!」
奴が俺の腹に何がついているのかに気づいた。
そして、俺がどうしようとしているのかも。
直後、右肩を刺された。恐らく奴も刺すつもりなんか無かっただろう。俺が、急接近してくる死が怖くて振り回していただけだ。
だが、その痛みが全身に届くよりも、俺が奴の懐に飛び込む方が速い。
「おおおおっ!!!」
奴の胸に飛び込んだ。
そのまま、赤く光る腹を叩きつけた。
※ ※ ※
「さて、どこから来る?」
使用人が去った広間で、俺は一人神経を張り巡らせる。
護符と丸薬は準備が出来ている。後は相手が来ないことを祈るだけだ。
幸い、騒ぎが近づいてくる様子はない。恐らく門の前で小競り合いをやっているのだろう。
「……」
だが、それが気を抜いていい理由にはならない。
今回のフィーナさんの結婚に反対する者からすれば、なんとしてでもこの歌返しを止めなければならないはずだ。そのための抵抗が、門の前での小競り合いなんかで済むとは思えない。
その結論に至るよりも早く、窓を突き破って何かが撃ち込まれ、その直線上にあった照明が砕かれて光を失う。
「ッ!」
咄嗟に柱の影へ。
更にもう一発が撃ち込まれ、また別の照明が壊されて広間のうち闇の占める割合が上がる。
「おいでか……」
柱の影から撃ち込まれた窓を確認。
ガラスの割れたところに、細長い触手のようなものが入り込むと、一瞬で鍵を外したのが分かった。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に