ドブネズミのスワンソング17
夏の夕暮れ。
オレンジ色が目に見える程のスピードで濃くなっていく外の世界を、大きな窓の向こうに見ながら、俺は部屋の隅で得物を抱えていた。
先程の鐘は閉門と同時に、儀式を開始する合図ともなった。
今から明日の夜明けまで、長い儀式が続く。
その間、俺はここを誰一人通す訳にはいかない。
昼間屋敷を回って、そしてヴィルヘルムさんから受けた説明を実際に自分の足で確かめて分かったのは、俺とシラの役割は儀式防衛の最後の砦、ゴールキーパーのような立場だ。
厨房の勝手口とそこからつづくこの広間。これらを抜かれれば、後は儀式の行われている部屋まで一直線だ。使用人による警備や、上層街警備部隊も警戒に当たってはいるが、使用人たちは広い敷地と屋敷の要所を守るのに手いっぱいで、儀式に関わる人間も抽出しなければならない関係で応援を寄越す余裕はない。
警備部隊も同様で、この屋敷だけではなく上層街そのものへの襲撃を警戒しなければならないという性質上、上層の各所に兵力を分散せざるを得ない。
つまり、それらが突破されれば後は俺とシラとヴィルヘルムさんだけで何とかしなければならない。
「……責任重大だな」
思わず口を突いたその正直な感想。
おかしなもので、普段の護衛だって俺とシラが気を抜けばジェルメに危害が加えられる状況は発生するのだ。
だが、それよりもこうした大人数の中での最後の砦というポジションのプレッシャーは大きい。
正直なところを言えばキーパーまでボールを回さずに一晩終わることを願っている。ディフェンダーやミッドフィールダーでなんとか抑えてほしい。
「ッ!」
思いにふける時間は唐突に終わる――背後から聞こえた足音で。
「……」
「ああ、ごめん。驚かせてしまった」
振り向くと同時に鯉口を切っていた左手をそっと鍔から離す。
同時に護衛する必要から儀式の間の前に控えていたはずのジェルメが、小さな袋を持って俺の前に立っていた。
※ ※ ※
口の中に言葉を留めたまま考える。正直に話すべきか、それとも黙っているべきか。
一瞬の葛藤。
「お前の気持は分かるが、なあ?」
「……やっぱり討つべきじゃない」
さっきまで葛藤していた己自身で驚くほどに、断言する形で言葉が飛び出した。
ああ、言った。
言ってしまった。
これでもう戻れはしない。
「フィーナ様は歌巫だよ。俺たち皆、あの方にお世話になった。俺の親父が腰をやった時の事知っているだろ?俺が高熱でうなされていた事知っているだろ?俺は……あの人を討つ気になれない」
返事はない。
奴の表情は逆光になっていて見えない。
沈黙が恐ろしく思えて、更に言葉を続ける。
「それに、フィーナ様は歌巫を引退する。筋は通っているじゃないか。ベナティフ家の人間になるから、それ以上この町の象徴としての歌巫を続けることはできない。引退して次の歌巫に引き継ぐ。何もおかしくないじゃないか」
そうだ。そもそも身を退くフィーナ様を討つ必要なんてない。
ベナティフ家の人間に戻りながらも歌巫という町の象徴の地位にしがみつこうというのならともかく、潔く辞するのなら、それをわざわざ襲う必要などどこにもない。
「そうじゃない」
「え?」
その考えはしかし、まるで子供でも分かる事であるかのようにあっさりと否定された。
「そうじゃないんだよ同志ラド」
同志。クリムの口からその台詞が出るのは決まっておふざけの時だ。
だがはっきりと言える。今回はその最初の例外だ。
「そういう話じゃない。そういう理屈の話じゃない」
「じゃあどういう……」
「いいか?歌巫としての姿勢の問題なんだ。歌巫はお前の言う通り町の象徴だ。この町を代表するものだ。だったら、上層の人間になんかなるべきじゃない」
「なるべきじゃないって……そもそも彼女の生まれは上層のベナティフ家だぞ!?」
まあ落ち着け――ジェスチャーがそれを伝える。
そして、これまた聞き分けのない子供を諭すように奴は続ける。
「いいか?もう一度言うが、フィーナは歌巫だ」
「呼び捨てとは言い度胸じゃないか」
「落ち着け。いいか?歌巫は町の象徴だ。だったら、この町で一番多い側につくべきだ。一握りの上層と、大多数の俺たち下層。どっちにつくべきかは分かり切っているだろう?」
要は多数決の原理で決めろという話だ。
確かに普通の話題ならそうなるだろう。一握りの上層の声を下層の大多数のそれに優先すると言えば納得はしないし、町の議会もそれでは通らないだろう。
だが、今はそういう話ではないという反論が俺の頭の中で何度も響いている。
上手く言語化するにはもっと時間が必要だろうが、感覚としてはしっかりと、クリムの言っている事が違うと認識している状態。
「それは……だから……」
きっと頭のいい奴なら、今この場で当意即妙の答えを返すのだろうが、生憎頭の世さとは無縁の人生を送って来た俺に、そんなものが突然宿る訳がない。
そしてクリムは俺の迷いを捨てさせに来たのであって、ゆっくり話を聞きに来たわけではなかった。
「とにかく、今夜の閉門時間には兄貴の家に集まるぞ。お前も来いよ」
それだけ言うと、くるりと踵を返す。
「同胞団と共にあれ」
「……同胞団と……共にあれ」
去り際のそれが、一切の逃亡を許さぬという脅迫のように思えたのは、俺の思い込みではないだろう。
「どうすりゃいい……」
それからもずっと、俺は悩み続けた。
閉門を告げる鐘が鳴り響いた時も、家から一歩も出ずにパニック状態の頭を抱えていた。
フィーナ様を討つべきじゃない。
それは間違いだ。
だが同胞団は?
鐘は鳴ってしまった。時間は来てしまった。
討つべきじゃない。だが討つと言っている連中から抜け出す方法も、止める方法も、それを納得させるための説明も一切持っていない。
今日一日悩み続けてこれを理解できたのが奇跡みたいな俺の頭では、これ以上うまい手を考えるなど不可能だ。
「……いや」
一個だけあった。
どうしてこういう時だけ、こういう発想が出てくるのかは俺には分からない。
神か悪魔か分からないが、何者かが俺に吹き込んだのかもしれない――信心深ければそんな事を考えてしまうだろう。
そうだ、一個だけある。
他の一切を考えなければ、一個だけ方法がある。
それが確実かどうかは分からないが、少なくとも一番確率の高い同胞団の止め方が。
「でも……」
出来るのか?あらゆる意味で。
俺は能力を得た。あの虫を買って。
だが出来るのか、俺に?
顔見知りの連中に実力行使だなどと。
※ ※ ※
「……何か用か?」
「差し入れだよ。手を出して」
落ち着きを取り戻して一つ息を吐きながら尋ねた俺に、ジェルメは袋を見せながら言った。
言われた通りにすると、袋の中身を差し出した手のひらに。
「……これは?」
手のひらに転がる、外の夕日を固めたような色の飴玉と彼女の顔を見比べる。
「丸薬。修行僧が使うようなものだけど、腹の中で膨れて満腹感がある上に栄養もあるから。……ごはん、ちゃんと食べてないでしょ?」
他に替えの効かない見張りだ。途中で排便やら排尿やら気にするリスクを考えれば、入れる方を調整するのが一番確実だろう。
だから、この差し入れは非常にありがたかった。
「助かる。ありがとう」
その飴玉を口の中に放り込むと、ほんのりと色が示すようなオレンジの味がした。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
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