ドブネズミのスワンソング16
そんな状態で、何とか場所を覚えた会食のあった広間へ戻って来たのは昼頃だった。
とりあえず、ここから歌返しの儀が執り行われる離れの一室へのルートは把握した。
「本当に襲撃なんてあるのでしょうか……?」
下層を見下ろせる大きな窓から外を眺めながら、シラがぼそりと呟く。
下層の様子は何も変わらず、活発に動き回っているのだというのが、まるでアリの巣でも見ているような感覚で見下ろすことができる。ここからだと小さな点にしか見えないが、あれらは間違いなく人で、そして恐らくいつも通りに生活している。
その向こうには、下層の建物の中では珍しく背の高い建造物群が並んでいて、その片隅に建つ塔が、巨大な日時計のように長い影を落としている。
海水ろ過プラント。およそ魔術だのなんだのが存在する世界に相応しくないそれは、専門知識を持った転移者が持ち込んだ技術を、この地で再現したものだ。
壁の外まで伸びている太いパイプで沿岸に設けられた取水塔に続き、そこでくみ上げた海水を町まで運び、このプラントで淡水化して市街に提供する。
パイプが壁を越えるためか一段高い位置に設けられた施設群の中でも、特にその塔は上層と同じぐらいの高さを維持する数少ない下層の建造物だ。
その塔の影が東に長く伸びるようになった頃、ようやく俺たちはこの屋敷の中を把握して自分の配置につくことになった。
俺の配置はこの広間、そこから更に奥の厨房の横にある勝手口がシラの受け持ちだ。
儀式は日が完全に沈んでから行われる。
明日の朝まで続く、大掛かりな代物だ。
※ ※ ※
「……」
兄貴の家に集まった翌日。俺は仕事を休んだ。
昨日の夜はほとんど寝ていない。というより、そんな気持ちにならない。
誰に誇れなくてもいい、誰に対しても恥ずかしくないように生きろ――生まれ育ったこの家で、母親から何度も何度も聞かされたその言葉が頭から離れない。
誰に対しても恥ずかしくないように――そのために俺は同胞団に参加した。兄貴やクリムや、他の仲間に対して恥ずかしくないように、彼等の言うところの何も考えずにただ人生を浪費する存在にならないように。
それは決して間違っていないはずだ。
間違っていないはずだった。
そう、だった、だ。だが今はそれが分からない。
「……」
フィーナ様を殺す。果たしてそれが恥ずかしくない所業なのか――昨日の夜からずっと悩み続けて、未だに答えが出せずにいる。
「どうした?同志ラド?」
あの席で、兄貴が俺の様子に気づいた。
周りの目が一斉に俺に向けられる。もう誤魔化しは効かない。
「フィーナ様を……排除するのですか?」
自分の耳がいかれていないことを確かめる――いかれている事を内心で祈りながら。
「その通り。最早あの女は敵だ。我々下層の民のな」
「し、しかし……あの方は歌巫です!我々の象徴のはずの……」
「そうだとも、故にそれを捨てベナティフ家の人間となるつもりなら、最早容赦する必要はない」
拍手、賛同、どうやら味方は一人もいない。
結局、俺はそこで黙らざるを得なかった。
「では、門は閉じているが、明日も閉門時間に鐘が鳴る、その時ここに集まれ。日が沈んだら決行だ」
作戦の最終確認を終えて解散となるまで、俺はずっとどうするべきかを考え込んでいた。
そしてその葛藤は今まで途切れずに続いている。
フィーナ様を殺す。それが兄貴の決定で、同胞団の決定だ。
同胞団はその名の通り、この町で生まれ育った者達による集まりで、構成員は全員――兄貴が呼び込んだのだろう能力者二人を別にすればだが――俺の顔見知りだ。
恥ずかしくないように――ここで俺一人が逃げ出せば、恐らく一生の笑いものだ。
いや、笑いものならまだいい。裏切り者の烙印を押されれば、この町で生きていくことは出来ない。あらゆる仲間内から締め出され、商売もまともにできなくなるだろう。
そうなったら後は町を捨ててどこか他所に行くしかないだろう――といって、何が出来る訳でもないただのルクチャ売りの俺に出来ることなど何もない。
「いや……」
そうだ。今の俺はただのルクチャ売りではない。もう能力者なのだ。
一人でだって生きていける。俺はもう凡人ではないのだ。
「そうだ、そうだよ!」
何で気づかなかった?本来はこの襲撃のために手に入れた能力だが、必ずそれに使わなければいけないなんてことはない。そうだ、俺は逃げればいい。俺は逃げられる。誇りも恥も知るものか。生きていればいくらでもやり直しは効く。あの商人だって「あなたの第二の人生が実り多きものでありますように」と言っていたじゃないか。
俺は逃げる。
悪いな皆。俺はおさらばする。
お前たちとは関係ない。俺は俺一人で、俺のために生きていく。
「……」
――だけどその時、フィーナ様はどうなる?
俺は、あの人を見殺しにするのか?
初めての歌巫としてのお務めを緊張した様子で、しかし立派に務め上げた時から知っているあの人を?
親父が腰を痛めた時に、その歌で歩けるようにしてもらった相手を?
流行り病で高熱にうなされていた時に、起き上がれるようにしてくれた相手を?
子供のころ、物語の英雄に憧れて、ただのルクチャ売りの子供で、親父の跡を継ぐしかないと知って夢破れた時にも、遠くに聞こえる彼女の歌声に慰められたのに?
あの人の歌声が聞こえる町に暮らすなら、それでいいと思っていたほどなのに?
ほとんど同じ年であれだけ立派に務めを果たす彼女の事を尊敬し、憧れ、そして――好いていたのに?
「よう、いるな」
「ッ!!」
そこで考えが中断される。
何の答えも待たずに入ってきたのは、仕事道具一式を抱えたクリムだった。
外は既にオレンジ色の光が広がっている。どうやら俺は一日中悩んでいたらしい。
「……クリム」
「兄貴から、お前の様子を見に行ってやれと言われてな」
それがどういう意味なのか、今の俺にははっきりと分かった。
俺は今、兄貴にも、そしてクリムにも、警戒されているのだ。
※ ※ ※
間もなく門が閉まる時間だ。
と言っても、最初から閉ざされているから、ただ鐘が鳴るだけだが。
「いよいよか……」
オレンジ色の光が差し込む窓から影に沈んでいきつつある下層を眺めて漏らす。
今日に限ってはただの閉門の鐘ではない。
俺たちにとっては、開始のゴングだ。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
今日はここまで
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