ドブネズミのスワンソング12
その話題が空気を変えてくれた。
それ以降話題は彼女の縁談についてが中心となり、華やかで和やかな会食となったのは、何よりの成果と言えた。
結局、素晴らしい料理なのだろうが何を食べたのか分からないぐらいの緊張は変わらなかったのだが。
会食を終え、俺たちは再び部屋に案内される。
「お風呂のご用意が出来ております」
部屋に戻ってから少ししてから、恐らくこちらに来て初めての個人宅の風呂というものに入ることになった。
大陸とこの島と、多少環境の違いはあれど共通しているのが風呂の文化だ。
どちらも基本的に村や町にある公衆浴場を使うのが一般的で、もし自宅に風呂があるとなればそれは家というより宮殿と呼ぶべき代物だ。
そしてそれ故にか、その宮殿の風呂はまさしく贅を凝らした――と思ったのだが、思っていたより普通の大浴場と言うべきものだ。
と言っても勿論庶民の使う公衆浴場とは恐らく別格なのだろうという事は、なんとなく調度品や什器のしつらえで分かった。
流石に歴史のある名家という事か。ある意味、詫び寂びと言えるのかもしれない。
「ふぅ……」
「失礼します」
ふと、一息ついたところで一人の使用人の男性が恭しく一礼して入って来た。
「ああ、どうぞ」
ここは使用人の風呂だったようだ。
――そう思った瞬間に、その説は覆された。
「お背中お流しいたします」
「えっ?」
まさか三助までしてもらえるとは思わなかった。
断るのも悪い気がしてお願いする。思えば日本にいた頃から背中を他人に流してもらうなどという経験はついぞしたことがなかった。
風呂を貰ってから、再び部屋に戻る。ここで得た教訓が一つ。特別扱いしてもらうのも慣れないと気疲れするものだ。
部屋に入って少ししてから、女湯の二人が戻って来た。
「おや、先に戻っていたんだね」
ジェルメはそう言って俺の横を通り過ぎ、湯気を立てる体のままちょっとした家ぐらいの広さのある部屋を抜けて窓際へ。
こちらの世界にも設けられていた旅館の窓際にあるあのスペースのような場所に腰を下ろして窓を開けると、夕涼みとばかりに風に当たっている。
「風邪ひくぞ」
言いながらしかし、俺もそちらに当たりに行く。風呂上がりに涼めるのは中々にいい塩梅だ。
「町が見えますね」
後からついてきたシラが、大きな窓の向こうに広がる光景を見下ろして呟いた。
既に日は暮れ、下層の存在を知らせるのは無数の屋根と路地に代わって、所々マグマのように見える明々とした光と、立ち昇る煙。
時刻は夕食時には少し遅い頃、恐らく仕事終わりに安酒場に集まる連中が、あの光の周りには掃き集められたように固まっているのだろう。
「いい景色だね……」
その光景をぼんやりと見つめながら、ジェルメがこぼす。
「……上層から下層の生活を見下ろして、っていうのは少し悪趣味だけど」
そう付け足しながら、しかし実際妙に飽きない景色ではあった。
精巧に作られたジオラマのような、或いは何か別の生き物を見ているような、そんな気持ちにさせられる不思議な光景。もし観光地だったら、この光景を見るためにここまで来たかもしれない。
「あ、そうだ」
不意にジェルメが俺の方を見る。
「夜目が利くようになる丸薬、持っていたよね」
成程、そういう事か。
自分の荷物からそれを取り出すと、彼女は財布から小銭を出そうとしているところだった。
「要らないよ。一粒なら」
そう言って自分でも一粒齧り、二人にも同じものを渡す。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
そのまましばし、俺たちはその景色を眺めていた――やがて景色が夜景と呼ぶ方が相応しくなって、流石に熱が退いてきた肌が涼しさを感じ始めるまで。
「……さて」
ジェルメが立ち上がり、さっきまで頬杖をついていた手で窓を閉める。
ぴたりと閉じて施錠した彼女が再度俺たちの方を振り向いた時には、これまでの付き合いでなんとなく分かるようになった、何か考えている時の顔をしていた。
「どうした?」
「……いくらか賭けてもいいけど」
不敵な笑みが、考えが纏まったことを、そしてそれにほぼ確信に近い自信を持っているという事を物語っている。
「明日も一日、外の門は閉め切っているだろうね」
そう言いながら、彼女は闇を指で示す。
その延長線上には、市壁の上でゆらゆら揺れている光点=松明の火。
「ああ、魔物が出たとか言うあれか」
「普通、町の周りに魔物が現れて門を閉鎖したとなったら、衛兵隊はどうすると思う?」
言われてもう一度外に向けた目を細める。
一定間隔でゆらゆら揺れている松明以外には特に何も見えない。
「どうするって……警戒を強化するか、敵の位置が分かっていれば討伐に向かうかだろう」
「そのどちらの様子も見えない。能力のある者を募っている最中だったとしても、警備を強化するぐらいのことはしているだろうけど、あの松明の数は増員したって感じじゃない」
今日は妙に冴えているなこいつ。
言われて見ると、確かに動いている松明の量は少ない。
「だが、ここから見えないだけかもしれん」
「私もそう思った。それでさっき背中を流してくれたここの使用人に聞いてみた」
どうやら女湯にもそういうサービスはあったらしい。
「だけど何も分からないと言っていたよ。幸い、私の所に来てくれた人はおしゃべり好きでね、下層にいる出入りの商人ともよく話すそうだが、今日来たその商人は何の情報も持っていなかったと言っていたよ。衛兵が増員されたとも、警備体制が変化したとも、ね」
つまりただ単に門を閉めて町を閉鎖しただけと言うことだ。
「何のためにそんな事を」
「さあ?誰かを入れないためか、それとも出さないためか……。ま、誰がどういう目的でやったにせよ、その誰かが満足するまでは帰れないと思った方がよさそうだね……お?」
そこで不意に扉をノックする音が室内に響いた。
「恐れ入ります。ヴィルヘルムめにございます」
そのノックの主の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
何か一大決心をしたのだろう、直感的にそう分かる声で。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に