ドブネズミのスワンソング11
現れたのは既に老人と呼んでもいいだろう見た目の人物。
ただ、一介の高齢者ではないということは、恐らくこの雰囲気の中でなくてもすぐに察することができるだろう。
豊かな銀色の髭を蓄えた彫りの深い顔のその老人は、きっとそれがオーラというものなのだろう、権力者のそれを備えていた。
恐らくはシルクだろうか、光沢のある柔らかな衣装――衣服と言うよりそう呼んだ方が適切だろう――も相まって、王族と言われても信じてしまうような雰囲気を醸し出している。
そして恐らくこの場で最もそうした相手とのやり取りに慣れていると思われるジェルメは、旅装の裾をつまんで跪き、俺たちもそれに倣う。
「温かなお心遣い、まことに感謝いたします。私はマルケの商人でジェルメ。こちらは供の者達でございます」
「ご丁寧にありがとうございます。私は現ベナティフ家当主、ベナティフ・エル・クラン・コレジオ。こちらは娘のフィーナ」
「どうぞおくつろぎください」
その言葉を聞いて始めて俺たちは頭を上げる。
どうやら、ジェルメのそれは間違いではなかったようだ。
「さ、堅苦しい挨拶はこの辺にして、食事にしよう」
コレジオ氏の言葉で全員がテーブルに着く。
紹介されたフィーナという女性も、まだ20歳そこそこだろうが、父親同様どこかの王妃か姫と言った方がよさそうな楚々とした空気を漂わせていて、着物のような、裾や袖の長い衣装を極めて自然に着こなしている。
全員の着席を確認すると、コレジオ氏が手元のベルを鳴らし、恐らく部屋の外に待機していたのだろう給仕たちが一列にテーブルへ。全員が手際よく、しかし全く静かに料理を並べていく。
「どうぞ遠慮なさらず。ヴィルヘルムの客人であれば、私たち家族の客人と同じだ」
コレジオ氏のその言葉のわりに当のヴィルヘルムさんは執事の仕事にかかりきりで、先程別の使用人に呼ばれて出て行ってしまっているのだが。
まあ、これは上流階級の言い回しのようなものなので、馬鹿正直に考えず、そう言ってもらえるのであれば素直に従うのがいいというものだ。
「では、ありがたく頂戴いたします」
透き通るような金色の酒が注がれたグラスを傾ける。
普段の仕事の際に泊っているような木賃宿ならこの一杯だけでお釣りがくるだろう。とても酔う気にならない酒だ。
実際、大して度数も高くないのだろう、ジェルメもフィーナさんもシラも特に気にする様子もなく進めている。
と、一品目の、恐らく前菜や先付に当たるものだろう料理を食べ終え、真っ白なスープが供されたのとほぼ同時に、ヴィルヘルムさんが戻って来た。
「お食事中失礼いたします」
深々と頭を下げると、コレジオ氏の方の耳元へとヴィルヘルムさんが急接近する。
「ああ、ちょっと失礼」
何かを耳打ちされた所で、コレジオ氏が俺たちにそう言って席を立った。
「……歌返しが……占術……」
漏れ聞こえてくる声に混じる聞きなれない単語。
同じものが聞こえていたのだろう、ジェルメの口が同じ単語をぼそりと繰り返した。
「歌返し……」
そしてそれが、ちょうどタイミング悪くというべきか、話を終えて戻って来たコレジオ氏が席に着くところと重なった。
「大変なご無礼お許しください。決して聞き耳を立てるつもりはありませんでした。ただ、聞きなれない言葉でしたので」
その謝罪を受けたコレジオ氏は幸いにも非常に上機嫌な様子だった。
――なんとなく、反芻した時の彼女のそれは本当に耳慣れない様子とは異なるような気もしたのだが。
「いやいや、どうぞお気になさらず。むしろ誰にも聞いてもらえなければ私の方から口を滑らせてしまう所だった」
それから隣のフィーナさんの方に目を向ける。
「喜べ娘よ。歌返しの儀の日取りが決まったぞ」
「では、ジース様が」
「ああ。今しがた占ってくれてな。占術では、明日の夜に始めるのが望ましいとのことだ。何でも、十年に一度の素晴らしいめぐり合わせらしい」
どうやら何かの儀式を行う日取りを決めていたらしい。
そしてそのためには絶好の日取りに決めることができたようだ。
「もう、お父様ったら」
「済まんなぁ、年甲斐もなくはしゃいでしまった。だがこれでようやくお前のお役目も終えることができる……父親としては、ようやくほっとしているのだ」
苦笑交じりに興奮気味の父親をたしなめながらも、しかしフィーナさん自身も決してそれと異なる気持ちを持っている訳ではないという事は、その口調と浮かべた笑顔とでなんとなく分かった。
「失礼しました。お客様の前で……」
そう詫びる時の様子も、また変わらずだ。
「いえ、何か喜ばしいお知らせがございましたか?」
ここでのやり取りはジェルメに任せよう。供の者が口を差しはさむ必要はない。
そして水を向けた彼女にその喜びを共有したいと言わんばかりに、フィーナさん自身があらましを説明してくれる。
「実は私この度、輿入れいたしますの」
「それは喜ばしい。お屋敷の中が何やら華やいでおられましたのは、その為だったのですね」
どうやらジェルメの見立ては正しかったようだ。
そしてその口上もまた、模範解答と言えるものだったようだ。
「騒がしい所をお見せしてしまい、お恥ずかしいです」
「いえいえ。祝福の声に騒がしさなどどうして感じましょう」
演劇のようなやり取り――率直な感想をぐっと飲みこむ。
「その歌返しというものも、ご婚礼に関わるものなのですか?」
「ええ。この町の風習なのですが……、町の古い家系の女子には歌巫という役目があります。特別に祝福を受け、歌をもって人々を癒す力とそれを持って人々を助ける義務を与えられるものです」
この世界におけるそうした役割は、実際にそうした能力を発現させる。
彼女の役割も、言ってしまえば超広範囲の回復魔術とかの類だろう。
「歌巫にはいくつかの守るべき戒律があり、その中でも歌巫は誰と結ばれてもならぬというものがあります」
つまり、一生独身で居なければならないという事。
――ああ、なんとなく歌返しの意味が分かってきた。
「そのため、輿入れの前には歌返しと呼ばれる儀式を執り行い、歌の力をお返しして、ただの人にならねばなりません」
予想通り。
つまり、どんなに結婚を急いでいても、まずその儀式を行わなければ先に進むことは出来ないという事。
言い換えれば、双方の合意があれば、これを越えれば後に障害はないという意味でもある。
その日取りが決まった。もし本人が結婚に乗り気ならば、それほど良いニュースはあるまい。
「歌返しの儀式は、その内容さえ誤っていなければよいとされていますが、代々占いによって良い日取りを決めて行うのが伝統となっておりますので、いい日取りが得られるまで待つことも覚悟していたのですが、それが明日の夜に決まったのです」
そう語る彼女の声は、その縁談に乗り気であるかどうかを一瞬で理解できるほどに、弾んだものだった。
(つづく)
このところ更新が安定せず申し訳ございません
今日はここまで
続きは明日に