ドブネズミのスワンソング6
馬車が進む。
目的地に近づくにつれ、それまでのただっ広い草原だったものが、左手が切り立った崖に代わり、朽ち果てたまま忘れ去られた遺跡群が点在し始める。
街道はその中を抜けて進み、やがて左手の沖合にロゴノー島が、進行方向の奥に切り立った山々が見えてくるようになった頃になって、目指す市壁が地面から生えてくるように見え始めた。
そこで街道から分岐して町へ進む方向へ。街道はソブオルを迂回して更に北へ伸びており、遠くに見える山々の更に向こう、北部最大の都市アネカまで続いている。
その街道が小さくなっていくのと反比例して大きく、そして細かな姿まで見えるようになった市壁とゲート。そして、緩やかな下り坂故に見える町の全体の姿。
しゃぶしゃぶ鍋、と言えばわかりやすいだろうか。
市壁が町全体を大きく囲んでいるのは、今朝出発したアーディングをはじめ他の多くの町と同じだが、その中心部には高い石垣が築かれ、その上にも壁に囲われた町が出来ている。
都市の中に都市があるような二重構造を形成しており、城砦のような中央からは何本か、周囲を囲む町を通さずに市壁に直通する橋がかけられている。
レプソで聞いていた話とその光景から、中央が上層、その周囲が下層なのだろうと推測するのに時間はかからなかった。
「ようこそ、ソブオルへ」
馬車を折り、ゲートでの審査を終えて内部へ。
市壁をくぐってすぐに現れるのは旅人相手の施設と、そのすぐ向こうに広がっている、雑多な下層の商業区画――区画などと言う概念がある程整然としてはいないが――だ。
間もなく昼時というのもあって、無数の露店や売り歩きが辺りを行きかい、当然ながらその客と思われる者達も同じぐらい行きかっている。
「……ん」
そして日本人には懐かしい臭いが、その集団中から漂ってきた。
「う……」
同じものを感じ取ったのだろうジェルメの反応は、しかし俺のそれより芳しくない。まあ無理もないだろう。
「……カルデン人の豆だね。この臭いを嗅ぐとアルスカに来たって実感するよ」
カルデン人の豆、この世界における納豆の呼び名。
カルデン人というのは大陸北方にいる民族で、交易や出稼ぎで大陸諸国やアルスカに伝わった彼らの食文化には、驚くべきことに日本のそれとほぼ同じ納豆があった。
食べ方も日本と同様にそのままか、或いは熱いスープをかけて納豆汁のようにして食べる。
大陸各地にも伝わっているのだが、やはりというか何というか、向こうで受け入れられているかと言えば、このジェルメの反応が全てを物語っていた。
もっとも、同じものを感じ取っているはずのシラは全く意に介さないようなので、需要がない訳ではない――と思う。
そんな事があったからか、迎えの馬車を見つけると、ジェルメは臭いから逃げるようにそそくさとそちらに向かっていった。
「道中お疲れ様でした。ようこそソブオルへ。お待ちしておりました」
ホテルマンの如く恭しく俺たちを迎えてくれた身なりの良い男。彼が上層の人間か下層の人間かは、道行く者達とは明らかに別世界と言っていい、その皺ひとつない清潔な衣服がしっかりと物語っていた。
そして彼の手に掲げられた柏葉と獅子を象った紋章を染め抜いた旗が、彼の栄えある所属を示している。
「屋敷まで馬車にてお送りいたします。どうぞ」
旗を降ろし、爆発物のように慎重に、しかし慣れた手つきでそれを仕舞うと、同じ紋章が描かれた幌付き馬車に俺たちを案内した。
二頭立ての幌馬車。だが並のものではない。
互いに向かい合うように設置された座席は、ここまで乗って来た、藁やベッドロールを流用したのではないクッションが置かれている。
「では、発進いたします。ご注意ください」
その合図とともに、ゆっくりと静かに馬車は滑り出す。そう、滑り出すのだ。動きだすという感覚すらなく、幌に設けられたのぞき窓の外の景色がゆっくりと後ろに流れ始めて初めて移動していると理解するような滑らかな始動。
御者の腕前や馬の質が勿論関係しているのだろうが、それと同じか下手すればそれ以上に大きく貢献しているのが車輪に仕込まれたサスだという事はしばらく分からなかった。
サスを備えた馬車。そんな代物など、少なくとも俺は一度もお目にかかったことはない。
一部の王侯貴族や豪商が特別にしつらえた――という話を聞いたことがあるぐらいで、一般にはそこまで広まっていないのだ。
こうした技術は転移者が持ち込んだと言われている。恐らく自動車や列車に造詣の深かった者がいたのだろう。
こちらの世界に持ち込まれたそうした技術に真っ先に飛びついたのは、やはり富裕層や王侯貴族だ。
ただ珍しいものを集めたい、更に言えばそれをステータスとしたいというのは無論の事だが、それと同じかそれ以上に特殊な技術を持ち込む転移者を囲っている事そのものを示して自らの存在価値を主張するためであったり、或いは特に為政者においては先進的軍事技術を保有していることを周囲に喧伝する必要があったのが大きい。
どこの世界も、軍事技術と民生技術の壁などあってないようなものだ。このサス入りの馬車だって、既にどこかの指導者が兵員や物資の長距離輸送用にでも転用しているのだろうし、或いは更に発展させて悪路の走破性を高める方向に進んでいるかもしれない。
そんな事情などとは無関係に、感心したようにシラが言った。
「随分静かな馬車ですね」
「ええ。ご来賓の送迎用に特別にしつらえました。こうした石畳の上であれば、中でお食事を召しあがられることも可能です」
案内人がその静かな車内故に聞こえる音量で、しかし誇らしげにそう答える。
彼の言う石畳の道は、ほどなくして上層へ直通する石橋に代わった。
綺麗に整備され、広々としたそこは、家一軒ありそうなほどの太い橋脚に支えられている。
下層の頭上を通り過ぎるそこから見下ろすと、とてもではないが馬車はおろか、ただの人間ですらすれ違うのが困難なほどの細い路地が毛細血管のように入り組んでいて、掘っ立て小屋のような家々が無秩序に隙間を埋めている。
精々20mかそこらの差。
それだけで、しかし実際は天と地ほどの大きな差のある世界が広がっていた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に