ドブネズミのスワンソング4
無事に入国審査を突破して建物を出ると、そこに広がっているのは活気に満ちた港町。
渡航者相手の宿や酒場、そして各種の商店や出店が軒を連ね、俺たちのように建物から出てきた人間を手ぐすね引いて待ち構え、口々に自分の所に呼び込もうとする。
勿論、俺たちのようにと言った通り、こちらにも例外ではない。
言葉は大陸と同じものが通じるため、ここにしばらくいるだけで客引きの語彙を全て覚えることだってできるだろう。
「まずは最初の依頼人の所から行こう。宿に入るのはそれからだ」
「了解」
その騒ぎの中を抜けて、認可を得た両替商の元へ。
こちらの通貨への両替を終えたら、向かうは人混みの港町ではなく、そこから少し外れにある倉庫街。
閉店間際の両替商から出てきた時には既に日は暮れて、オレンジ色に染まっていた世界は既に夜の闇に包まれていた。
「こっちだ」
繁華街の活気から薄暗い倉庫街へと足を踏み入れると、護衛を雇う必要性をしっかりと噛み締められる空気が漂い始める。
夜だから当たり前だが薄暗く、人通りもなく、そしてそれ故にか、敏感になった五感はその重苦しい空気を感じ取っている。
下手に路地裏にでも入り込めば、まず何もなく出てくることは出来ないだろうと直感させる空気が、この辺り一帯に満ちていた。
「確かこっちだったけど……」
その中を進んでいく依頼人を前後に挟んで倉庫街を港の方へ。
秘密裏の取引に港の倉庫――どの世界でも考えることは同じか。
目的地は桟橋の手前、ほぼ海沿いにある一棟の倉庫だった。
周囲の同様のものに比べればそれ程大きな方ではないが、それでも桟橋から一切段差なく荷の出し入れが出来る位置に設けられた鉄の扉は、馬車が並んで出入りできるサイズのもので、建物の間口はその倍以上あった。
その巨大な鉄の扉――ではなく、その横に設けられた小さな人間用のそれの前へ。
扉に向かい、いつものようにノックを二回、一拍空けてもう二回。
「赤い扉」
反応したのは若い男の声。
「白い鍵」
いつもの合言葉を交わしたジェルメのそれに応じて、ゆっくりと開かれた扉の向こうには、果たして声のイメージ通りの若い――どこか気の弱そうな――男が一人立っていた。
恐らくこういう薄暗い場所での胡散臭い取引は初めてなのだろう、これから自分がしようとしている事を前にガチガチに緊張しているのが手に取るように分かった。
「お待ちしておりました……」
男はそう言いながらも、その眼は目的の相手との間に立っている二人に明らかに警戒の目を向けている。
「どうも。こちらは供の者と護衛です。どうぞご安心なさって」
これまた慣れた様子でそう言うと、男も警戒を解いて体を躱し、扉の前から移動した。
「どうぞこちらへ」
巨大な樽が積み上げられ、大小さまざまな木箱や、更に大きなコンテナが並べられた倉庫内は、外から見ているよりも手狭な印象を受ける。
目の前の男以外に誰もいないことを確かめると、ジェルメにそれを告げる。
「それでは、早速取引に入りましょう」
それからは、最早見慣れた光景だった。
依頼人が代金を渡し、そこに不足が無い事をジェルメが確かめる。
「確かに」
終われば次の、そして最後の段階。
即ち、透明のシリンダーの中身を依頼人に飲ませるだけ。
「噛まずに飲み込んでください」
「これで……」
男は指示通り――しかし恐る恐る――その虫を飲み込む。
「ッ!!」
虫が自ら飛び込むようにして口内に消え、それから質量が喉を移動するのが外からでも見て取れた。
「さあ、これであなたには能力が宿りました」
ジェルメが代金を仕舞いながら告げる。
「それでは、貴方の第二の人生が実り多きものでありますように」
取引は無事終了。
後は宿に引き上げ、明日の朝の便でボルニーに……ではない。
ゲートを越えてすぐジェルメが言った通り、これが最初の依頼人だ。
今回この国での依頼人は二人。明日は朝からそちらに向かってこの港町を出る。
※ ※ ※
「これで……」
あの商人たちが帰った後、俺は自分の宿に戻った。
粗末な木賃宿のベッドロールにくるまって、自分の手を外から入ってくる明かりに照らす。
いつも通りの手。何一つ外見上の変化はない。
だが、あの気味の悪い虫を飲み込んだことで、俺はもうさっきまでの俺ではなくなったのだ。
「……」
だから何だ、という訳ではない。
明日の朝にはここを出て、生まれ育った町へ帰らなければならない。
のんびり物見遊山などと洒落込むほどの余裕はない。今回の旅費と虫代だけで、一体何年間貯めてきたのか。
帰ればすぐにまた仕事にかからなければならない。これまで通り、この木賃宿と大差ない粗末な薄暗い家での貧乏暮らし。
親の時代からそうだったように、貧乏人に生まれた以上貧乏人の人生しかない。
そして貧乏人の人生とは、毎日同じようにその日一日の稼ぎのためだけに働き、それを繰り返して生きることだけだ。
ただ食うために生きる。それだけだ。
その暮らしに、この数年越しの計画など必要ない。
だが、どうしてもそれではいられなかった。
「……」
誰に誇れなくてもいい、誰に対しても恥ずかしくないように生きろ――死んだ母親の言葉がふと浮かぶ。
そうとも、俺は恥ずかしくないように生きる。
そのためには、こいつが必要だ。
※ ※ ※
「さて、行こうか」
港町の朝は早い。
日の出前から既に動き始めている町から出たのは開門と同時。即ち、既に町中が日中の活気に満ち溢れ、ボルニー行きの第一便が出航する頃だった。
このアルスカ南西端に位置するレーデンの町から街道を通って北上。向かうはアルスカ中西部の古都ソブオル。
この国での第二の依頼人は、その中心部にあるソブオル草創期から続くという名家ベナティフ家の人間だ。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
今日はここまで
続きは明日に