新世界へ4
「……」
俺は無言で被疑者の手錠を片腕から外すと、空になった輪をパトカーに繋ぎ直した。
「じゃあな」
そして装備を脱ぎ捨て、一人先へ進む――埋めてやることも出来ない事を心の中で宮野さんに詫びて。
これが俺の仕事納めだ。
背後から惨めったらしい泣き声が聞こえてきて、俺は露悪的に唾を吐いた。
怪物がさっきの一体だけとは限らない。放っておけば、そのうち次が来て身動きの取れないあいつを殺すだろう。
或いはその前に俺が怪物に出会うかもしれないが。
「まあ……な」
だが、今更それを気にしても仕方がない。
突然こんな訳の分からない世界に飛ばされたのだ。今更そんなリスクを考えても仕方がない。それに、置いてきた奴がめそめそしている声が、そして先程の銃声と叫び声が、他の化け物を呼び寄せてしまうかもしれない。
となれば、すぐにでもここを離れるに限る。何しろもう弾はないし、頼れる上官もいないのだから。
背後からは、だいぶ小さくなった奴の泣き声が響いてきている。
奴には精々、化け物共を引き寄せる囮になってもらおう。
どうせクズだ。たった数万円のために家に押し入り、老人を撲殺した人でなしだ。
つまり、ここで死んでいい人間だ――俺と同じように。
俺はもう警官ではない。日本に戻れるかどうかわからない以上、あの野郎を守ってやる必要もない。
なだらかな下り坂になっている道を進むとすぐ、奴の声は聞こえなくなった。
ただ単に距離が離れたからか、それとも奴が腹をくくったのか、はたまた声を立てる暇もなく殺されたのか、別にどれでもよかった。
「おっと」
道の最後は傾斜を増した下り坂を滑るように降りて行って、何か人工の構造物の中に降りるところで終わっていた。
先程見かけたよりしっかりと残っている石壁に囲まれた通路。
此処なら車も通れそうな広さのそこは、片方が崩れてきた土砂とその上に根を張った巨樹で塞がれており、反対側に伸びている二十段ぐらいのすり減った石の階段しか進むべき道はない。
苔むしたそこを、滑らないように降りていくと再び段差に出くわした。
精々1m強の落差を飛び降りて石の広間に出る。
「ちっ……」
人間の体位の太さのある石柱の残骸が何本か倒れている広間の中に蠢くいくつかの人影。
頭が一つ、手足が二つずつ、先程の怪物に比べれば余程人影だ。
だがその人影は人影であって、人型であって、人ではなかった。それも思わず舌打ちが漏れる程には醜悪な。
身長は大体成人男性と同じぐらいだろうか。ゆらゆらと揺れながらこっちに近づいてくる。
その頭にも体にも一切毛が無かった。勿論永久脱毛なんてものではない――だろうと思う。そんな事をする理性のある生き物には見えない。
その顔は、人間のそれではなかった。
二つの目は赤一色。大きく裂けた様に開いた口には先程の怪物同様肉食獣のような鋭い牙。
だらりと下げた腕の先端――手というよりそう呼んだ方が近いような形状のそれには、まるで何とか人の手に見せようとしたかのようにかぎ爪のようなものが複数生えている。
人型だが、人ではない。
灰色の肌をした人ではない何か。
最も近い表現=化け物。
「ヴ……ヴ、ヴ……」
不思議な音を立てながらこちらに近寄ってくるそれ。
拳銃は既に捨てた。警棒も先程の場所に置いてきた。
成程、これで終わりか――恐怖に発狂しそうになりながら、同時に頭のどこかが冷静で客観的な判断を下している。
「ッ!!」
一番近くの一体が、その不気味な腕を振り上げて突っ込んでくる。
「ぐっ!」
可能な限り身をかわそうとするが、逃げられる場所はない。
何とか横に動いたはいいが、頭を咄嗟に庇った右腕にすっと、冷たいような感覚と衝撃が走り、それが一瞬遅れて激痛に替わる。
反射的に斬られた腕を押さえながら更に飛び下がろうとして、何かに足を取られて転んだ。
そして尻もちをついた俺を見下ろしている、腕から血を滴らせた化け物。
その後ろには、同様の存在が複数、のろのろとこちらに近づいてくるのが分かる。
ああ、ここで終わるのか。
ふと自分の口元が歪んでいることに気づく。笑っているのか、泣いているのか、それはもう自分にも分からなかった。
「――雷よ、我が刃となりて敵を討て!エギュ・トネール」
声が聞こえたような気がした。
何かが連中の後ろに落ちた気がした。
そして、閃光が世界いっぱいに広がった。
それから、その光に遅れてぐわんと轟音が続いた。
「あ……?」
視界が戻ってくるまでにどれぐらいの時間がかかったのだろうか。
光に眩んだ目に映るぼやけた世界には、もうあの化け物どもはいなくなっていた。代わりに、黒焦げになった妙なオブジェが同じ数転がっていた。
そしてその時間は、先程俺が飛び降りたこちら側よりさらに高くなっている対岸から飛び降りた人影がこちらに近寄って来るのに十分な時間だった。
「大丈夫?怪我はない?」
その人影が、今度こそ人間であるという事。
それを理解した瞬間。俺は地面に吸い込まれた。
これが腰が抜けるという事か、初めての経験をした俺を、命の恩人が覗き込んでいた。
「良かった、大丈夫そうね。……って、もしもし?私が分かる?」
色白な肌と、それより白い長い髪。覗き込むことで俺の顔に触れたその毛先からはほのかに甘い匂いがした。
「あ……えっと……」
まっすぐ見下ろしてくる大きなライトブルーの瞳に、まだ処理の追い付いていない頭はただ意味のない音を口から出すだけ。
「あ!腕やられたか。ちょっと見せて」
言うが早いか、彼女は俺の腕をとると、既に傷を中心に二の腕全体が黒く染まっているそこに手を当て、傷口を上から抑えた。
「ぐっ!!」
「我慢して、これぐらいならすぐ良くなる」
抑えた手に圧迫されて痛みが走るが、それも彼女が次に言葉を続けた時には無くなっていた。
「命よ、我が呼びかけに答えよ。力となってこの傷を癒せ」
静かにそう唱えると、それに答えるようにじんわりと傷口が温かくなり、それまで感じていた痛みが一気に退いていく。
「……よし、これで大丈夫――」
暖かくて柔らかな手が離れた時には、腕はただ血の付いた制服を着ているだけの状態に戻っていた。
「大丈夫?顔真っ青よ」
言われて初めて、自分が死ぬほど恐怖していたことに気づく――生温い股間によって。
「えっと、下は自分で何とかしてね」
「あ……」
22になって失禁とは恥ずかしいものだ。
だから、その後噴き出してくれた彼女の声がいくらかの慰めになった。
(つづく)