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新世界へ3

 「お前は背後だ。正面を見てくる」

 「了解」

 宮野さんの、同じぐらい緊張した声が俺に指示を下し、俺はそれに――目の前の現実から逃げるように――従った。

 全てが理解不能の状況。何かすることを与えてくれる存在とはこうまでありがたいものか。

 腰の拳銃に手を伸ばしながらトランクの方へと足を進める。

 ――ちょうどその動作が、俺たちのどちらもが離れていく=この異常事態に一人で取り残されると思ったのだろう。


 「ッ!!」

 突然背後で扉の開く音と足音が聞こえた。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃と共に振り返ると、そこには被疑者が縋るような目を俺たちに向けていた。

 俺はチャイルドロックをかけていなかったし、宮野さんもロックしていなかったことをその時になって気が付く。動転している時は、習慣化したと思っていた規則すら抜けてしまうものらしい。

 「おい、中にいろ」

 俺と同じく振り返った宮野さんがそう言いながらこちらに近づいてくる、まさにその時だった。

 近くの岩陰から彼の背後に何かが飛び掛かったのは。


 「「ッ!!?」」

 俺も、彼も、同時に反応していた。

 だが彼はあまりに距離が近すぎた――その化け物に対して。

 「がっ――」

 それが彼の断末魔だった。

 蜘蛛のようにも見える多脚の怪物。

 いや、足が多いからそう見えているだけなのかもしれない。前腕のようなものはサソリのハサミを思わせる形状であったし、足の生えている胴体から伸びている人間の上半身は毒々しいオレンジ色の縞模様で、本来なら顔のある部分には耳まで裂けたような口とそこに生え揃った肉食獣のような鋭い牙以外に何もない。

 おまけに成人男性と変わらないようなサイズのそれを、蜘蛛と呼ぶのは確かに無理がある。

 その怪物が宮野さんを組み伏せ――と言うよりハサミで体を切り裂いてから馬乗りになって――足で固定すると、おおきく振りかぶったハサミで首を捉えた瞬間、俺はようやくその状況でどうすべきかを理解した。


 「おおおおああああああ!!!」

 多分これでも反応出来ただけいい方なのだろう。

 叫びながら引き抜いた拳銃を怪物に向けると、次の獲物を見つけたとばかりにその牙だらけの口をこちらに向けた怪物に全弾撃ち込んだ。

 「ギッ、ギィッ!!」

 5mもない距離で何発当たったのかは分からない。

 だが少なくとも、この怪物にも三八口径の拳銃弾は有効だったようだ。

 突如体を撃ち抜かれた怪物は、その毒々しい体に出来た穴から、醜悪な見た目に相応しい紫色の体液をまき散らしながら短い絶叫を上げてのたうち回ると、やがてひっくり返って動かなくなった。


 「……ッ」

 その姿にただ弾の切れた拳銃をから撃ちするだけの機械になっていた俺が、どうも死んだらしいと気付くのにかかった時間はどれぐらいだっただろうか。

 大きく開いた足が天を仰ぎ、人間のような上半身を下敷きにして不気味な体液を垂れ流し続ける怪物の死体。


 「……クソが」

 拳銃を捨てると、代わりに手にした警棒の先端を先頭に奴に近づいていく。

 怪物から流れ出した紫色の液体が宮野さんの上にかかっている。それがどうしてかひどく腹立たしかった。

 パチン、と近くにあるハサミを警棒ではたいてみるが反応はない。

 それを確認すると今度は足蹴にしてそいつを宮野さんからどかす。見た目よりも軽い体はころりと転がってパトカーの進路上に転がった。

 腹と言うべきか、底と言うべきか分からない部分=足の根元が集中している体の下側が僅かにヒクヒク動いているのを見つけたのはその時だった。


 「……」

 そのまま踵を返してパトカーに戻り、既にエンジン以外動かなくなっている鉄の塊のアクセルを踏み込む。

 最早走れる道などない状況だが、数m先の怪物にとどめを刺すには十分だった。

 グオン、と聞きなれたうなりを上げた鉄の塊が瀕死なのか既に死んでいるのか分からない怪物の体に乗り上げて、バチバチと音を立てて踏みつぶすのを確かめると、エンジンを切って外へ。降りたすぐそこに変わり果てた宮野さんがいた。

 怪物は首を切り離してはいなかった。

 もしそうしていたら、多分もう一度エンジンをかけ直してあのクソを粉々になるまで轢き潰しているところだっただろう。


 こんなところで死ぬべき人ではなかった。

 何となくわかる。最期の時、彼はきっと外に出た被疑者の安全のために振り向いて中にいろと言ったのだろう――逃げるなと言いそうになった俺とは違って。

 買い被りでもお世辞でも何でもなく、模範的な警察官だった。

 良き警官であり、良き先輩であり、来月には良き夫になるはずだった。

 世の中は理不尽だ。あまりに理不尽だ。

 そんな人に、こんな良く分からない場所でよく分からない怪物に殺されるという最期しか用意しないのだから。


 そしてその為に生き残ったのは、失われた人に比べればあんまりに碌でもない二人。


 「……」

 踵を返す。母国語で何やら泣き言を言っている被疑者へ。

 さっきまでの憎たらしい表情は消え去り、メソメソ泣きながら信じているのだろう神に祈っているのだけは、その言葉の分からない俺でも断片的に理解できた。

 「黙れ」

 俺はその時初めて、なぜ自分が警察官を選んだのかを理解した。

 そしてそれが多分俺がこの世で最もなってはいけない職業だったという事も。


 俺は自分でも忘れてしまった――或いは無意識下でそうしようと努力していた――が、理不尽や不条理に怒っていた。きっと自分の境遇をそこに投影していた。犯罪者を、そうした理不尽や不条理をもたらす者を憎むことで自分の怒りを鎮めようとしていたのだろう。

 故になってはならなかった。

 俺は仕事でやっている訳じゃない。義務感や正義感でやっている訳でもない。


 ただ憎いのだ。不条理が、理不尽が。


 もし理由があるのだとすれば、きっと復讐だった。

 生まれ持っての差、覆しようのない差、どれ程努力しようが決して埋まらない差、違う世界に逃げて見なかったことにしてやり過ごすしかできなかった鬱屈したコンプレックス。

 犯罪者共は、ラリッてレイプするペイ中やはした金のために年金暮らしの老人を殴り殺すような連中は、その上厳格な司法制度と諸々の都合と“善良な”イデオロギーや政治的配慮に守られた連中は、その藁人形にぴったりだった。

 もう警官である必要はないし、続けることもできない――精神的にも、状況的にも。


(つづく)

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