虫鬻ぐ姫君4
幸いにも、襲い掛かってくる山賊には出くわさなかった。
朝の静かで涼しい森の中、緩やかな上り坂には俺たちの足音だけが風のざわめきや小鳥のさえずりに混じって聞こえているだけ。
俺を先頭にジェルメが続き、殿をシラが務める形で今や――山賊の影響と単に利便性の理由から――使う者のいなくなった旧街道を歩いていく。
「お、見えてきた。あれだよ」
それでも張り巡らせていた緊張を一瞬だけ緩めたのは、森の中の道が登りと同じぐらいの緩やかな下り坂にさしかかったところで進行方向の先に見えた小さな山小屋を指さしてジェルメがそう言った時だった。
その山小屋は巨大な岩盤のようになった、森の開けた先にあって、崖っぷちにぽつんと乗っかっている、正規の山道からは少し離れた場所だ。
その山道を越えて少し進み、小川にかかる石造りの小さな橋を渡った先にある小さな集落は俺も何度か堅気の冒険者だった頃に訪れたことがあった。
下り坂を進み、森を抜けたところでその山小屋の方向へ。かつては人がいたのだろうそこは、今では利用する者も絶えて久しいといった様子で、天上から僅かに伸びている煙突には分厚い木製の蓋がされていた。
その蓋と同じ材質と思われる扉をジェルメがノック。最初に二度、少し間を置いてもう二度。
「……赤い扉」
二度目のノックを終えてから一拍置いて中から聞こえてきたのは、くぐもった男の声。
風や雨があればかき消されてしまうような聞き取りにくいものだったが、ノックした張本人には問題なく聞き取れていたようだ。
「白い鍵」
目の前で固く閉ざされている扉に囁きかけるような声でそう答えると、更に一拍置いて鍵を外す音。
「……よく来てくれた」
現れた赤い扉の発言者は、怯えるような警戒するような目で俺を見つけた。
「「ッ!」」
リアクションは同時=奴が腰のダガーに手をかけるのと、俺が鯉口を切るのと。
「待った待った。大丈夫。彼はただの護衛」
ジェルメがちょっとしたハプニングと言った様子で笑い交じりにそう切り出すのが少し遅れていれば、俺たちはお互いにその刃を見せ合っていただろう。
「……まあいい。入ってくれ」
そうならなかったことに感謝しているのは向こうも同じのようだった。
「どうも、ああ、シラ」
「はい」
「外をお願い」
「了解しました」
招き入れられながら、使用人に下命すると、ジェルメは俺を中へと促す。
別れ際にちらりとシラの視線を感じ、一瞬だけ目を合わせる。
主を頼む、何でお前が中を任されるのか分からない、くれぐれも馬鹿な考えは起こすな――本当の所は読めなかったが、その視線から推測する彼女の心情の候補にそうした考えが、つまり俺をそこまで信用していないという内心が思い浮かんだのは、俺の考え過ぎだったのだろうか。
まあいい。今は雇い主が安全に取引を終えられるように目を光らせておくだけだ。
「代金を先に頂きたい」
背後の扉を閉めて依頼人の背中にジェルメが告げる。
その間に室内に視線を走らせる。
この依頼人以外に人の気配はない。
二十畳ほどのワンルーム。入ってすぐの所に大きなテーブルが一つ。その奥に小さな暖炉が一つ、その上に伸びているのが外からも見えた塞がれた煙突。部屋の隅にはベッド――と言うよりベッドロールを置くための台が二つ。
在りし日には猟師か樵か、或いは行商人や冒険者、もしくはそれらを狙う山賊が使っていたのだろう部屋の中は、所々壊れた壁や天井から差し込む光でぼんやり薄暗い程度の照度を保っていた。
「ああ、いいとも」
その部屋の暖炉の前に腰を下ろした依頼人が、革の袋を一つ掴んでテーブルの上へ。
「丁度あるはずだ。あんたの言った通り、足のつかない金だ」
そう言って対面に待つジェルメが置いた背嚢の横に袋を押しやった。
「どうも」
受け取った袋を開いて中を改めるジェルメ。その手つきは手慣れていて、とてもそれが俺の受け取る法外な報酬の十数倍の金額の金貨を数えているとは思えない速さ。
「確かに」
代金は十分だったのだろう。そう言って袋を受け取ると、反対に背嚢から例の円筒を取り出した。
俺はそこで改めて依頼人を見た。大金を払って第二の人生を買った男を。
彼の顔。恐らく三十手前の年齢のわりに老けて見えるのは、それまでの人生がそうさせてきたのだろう。藪睨み気味の、しかしどこか怯えたように落ち着かない目は、犯罪者、特に所謂臭い飯を食った事のある者に見られる特徴だった。
何より、左腕に入った特徴的な縞模様の刺青は、まさしく前科者の、それも殺人や現住建造物放火まではいかない――そこまで行けば待っているのは問答無用の死だから――までも、それなりに重い罪で“お勤め”をしたことを示している。
そして先程の反応=見ず知らずの相手が突然現れた時に咄嗟に取った行動。即ち、直ちに敵と判断して得物に、古い血のこびりついたダガーに手をかけるというそれが、その説をさらに補強していた。
そしてその身なりはお世辞にも良いとは言えなかった。
薄汚れたボロボロのチュニックの上から纏っているのは粗末な革のチョッキのようなもの。それがファッションだとか、防寒着だとかいうものではなく、より彼の仕事――そう呼んでいいのかは別として――において想定される事態の対策であるというのは一目で分かる。
山賊――今回の最優先警戒対象が、この依頼人の生業だ。
「……」
何となく複雑な気持ちだった。
これまでだって、明るみに出れば手が後ろに回る代物の密輸や密売に関わった事がないわけではない。だが、今回のこれはレベルが違う。はっきり言って、今回の代金だってどうやって用立てたのかは分からない。本人は足のつかない金と言っているが、合法的手段で入手した金とは一言も言っていない。
模範的な事を言えば、ここでこいつにナヅキ虫を、後天的に能力を付与する代物を与えるべきではないのだろう。更生したかもわからない重罪の前科者に覚せい剤どころかマシンガンもセットにして売り渡すようなものだ。
「……」
だが、俺は正義の味方ではない。
依頼は目の前の商人の護衛で、取引は今のところ問題なく粛々と行われている。
なら、意識するのはつつがなくこの取引が終わるためにはどうすればいいのかという点だけだ。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に