ある取引3
「で、何をしている?」
念のため周囲を確認し、誰にも見られていない事を確かめておく。
通報するつもりは無かった。自分の首を絞めるつもりは毛頭ない。
「知っていると思うが、ジェルメなら大広間にいる」
念には念を入れて声を絞ってそう告げると、シラは小さく頷いてバルコニーから室内へと入って来た。
「ジェルメは上手くいったようですね。私は別件があったので」
そう言って辺りの暗闇に目を凝らしている。
暗闇と言っても外からは月明かりが差しているし、廊下や他の建物からの光でぼんやりと室内の様子は分かる。
彼女にも、自分の前のテーブルの上にあるのが大皿だという事は、そしてそこに盛られているのが薄切りのチーズとローストした肉だというのは見えている。
「……私の役目は終わりましたから、これで失礼します」
そう言うや、皿の上から肉とチーズを一切れずつ失敬して口に入れる。
「夕食に来たのか?」
「昼から何も食べていないので」
ならこっちにパンもあるぞ――そう言いそうになったが、流石にここでしっかり食事したことがわかると色々よろしくない。親父さんが一杯ひっかけたのとは訳が違う。
それに、当の本人の自制心はしっかりと働いていたようだ。
「それでは失礼します。今日の事はどうぞご内密に」
しっかりと一礼――口の横にチーズのかけらをつけていたが――して再びバルコニーに向かって踵を返すシラ。
その背中を呼び止める。
言われなくとも誰にも言わない――と伝えるためではない。
「待て。どうやって帰るつもりだ」
「えっ?」
振り返って、それからチーズのかけらを指で口の中へ入れる。
俺の問いの意味は分かっていないようだ。
「来賓が全員到着した。現在南門は閉鎖され、敷地内の警備体制も変更されている。今の時間は北側の旧館を迂回し、茂みに隠れて西側から脱出するほうが安全だろう。そこからすぐに小さい崖がある。その崖の下にマラン川という川があるから、その川沿いに南下しろ。森の中に入ったら、じきにボナティアという町に着く。おおかた、そこを拠点にしているのだろう?」
そこで二度目の驚きの表情を見た。
「どうしてそれを……?」
複数の意味の込められた「どうして」だろうが、残念ながら全部説明している時間はないと、廊下の向こうから聞こえてくる来賓たちの声が教えている。
なのでとりあえず手短に、一番大きな「どうして」だろう部分だけ終わらせる。
「俺でもそうする。ボナティアは森の中の小さな町だが、旅人や商人がよく通り道にするから部外者がいてもそこまで怪しまれない。その上川に沿っているため逃げるにも攻めるにも使いやすい場所だ」
その間、彼女は手品の種明かしを見るような目で俺を見ていた。
きっとその瞬間に抱いた感想も、その目と同じようなものだろう。
「さ、もう行ってくれ。人が来る」
事実:小恥ずかしさ=8:2ぐらい。
「わかりました。ありがとう」
そう言って、彼女は再びバルコニーから飛び出した。
恐らく俺の示した通りのルートを行くだろう。ちらりとバルコニーから見下ろしたが、月明かりに照らされた庭には、既に何者の姿も無かった。
※ ※ ※
警備と鉢合わせしたと気付いた瞬間は寿命が縮んだと思ったが、どうやらまだ私の運は尽きていなかったようだ。
「助かった……」
あそこにいたのがユートさんで良かった。
あと、予期せず食べ物にありつけたのも――本当はもっと欲しいけど、今は我慢だ。
「北の旧館……ここか」
バルコニーから飛び降り、木陰と茂みを飛び移りながら言われた通りの方向へ移動。
その間警備も来賓も一度も出くわさず、姿さえ見ることはなかった。つくづく、ユートさんに会えてよかった。
「今度しっかりとお礼しておかなきゃ……」
一度振り向くが、もうバルコニーの様子は見えない。彼がいた部屋は相変わらず明かりが消えていて、まだそこに誰かいるのかは分からなかった。
――侵入者と出会っていた事がバレていないといいけど。
「……大丈夫だよね」
知人が、それも今まで何度も助けてくれた恩人だ。その彼に迷惑をかけてしまうのは避けたい。
「……よし」
進行方向に向き直り、頭を切り替える。
ユートさんに迷惑をかけないように、今は脱出に専念するべきだ。
ジェルメが依頼した情報屋からの情報の入手と、安全に使える偽の経歴の入手。その二つを達成するには二人でこの屋敷に潜入するしかなかった。
後者を担当したジェルメが上手くいっていると分かった以上、前者を手に入れた私の仕事は、後は無事に脱出することだ。
「ジェルメ、ボナティアで待っています」
身を翻して旧館沿いに伏せる。
直ぐ真上の窓に不意に明かりがついて、思わず息を潜めた。
「本当に……」
「ええ。勿論です……」
「私たちにも……が……」
聞こえてきたのはいずれも若い男女の声。声からして恐らく三人。
一組の男女が、もう一人の女に何かを確認しているようだ。
恐らくだが来賓ではない。言葉遣いというか雰囲気に、ああいう場所にいる貴族たち特有のものを感じない。
ならばあとはここの給仕か、或いは雇われた冒険者たちか。
その時、恐らく窓の近くに移動したのだろう、問い詰められていた女の声が明瞭に聞こえてきた。
「こちらの提示する依頼を受けて頂ければ、お約束通り新たな能力を差し上げます」
「!?」
あと少しで声を出してしまう所だった。
聴き間違いではない。能力を差し上げる。確かにその女の声はそう言った。
直感的に脳裏に浮かぶのはナヅキ虫。だが、そんなはずはない。あれはジェルメのものだ。ジェルメだけのものだ。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
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