Ⅵ 影絵師リュージェ 2. 絵でしか見たことない都
二階へ上がり、リアが目にしたものは、床に平積みされた書物の林の間で淡く光る、開かれたままの本たちだった。本に触れないように気を付けながら観察すると、光は表紙の色と同じ色で、光の源はページにびっしりと記されたどこの国の言葉でもない記号の羅列からであった。
「さぁ、こちらへどうぞ」
リュージェは部屋の奥にある鍵盤付きのローテーブルまでリアを案内した。その時、そばの散らかった本の隙間からネズミのワインが飛び出してきた。ワインは「きぅきぅ」鳴きながら、リュージェの足元まで走り寄った。
「はぁぁ。気絶してなくてよかったわ。どうぞ、この椅子にお掛け下さい」
リュージェはワインをすくい上げて、近くにあった書き物机の上の籐の小箱の中に乗せると、リアに椅子を勧めて史料本の製作作業の説明を始めた。
「このピアノのような鍵盤が並んでいるテーブルが作業台です。鍵盤にはそれぞれ一個づつ記号が記憶されていて、鍵盤部の先にある斜めの板に本を立てかけて鍵盤を打つと、ページに記号が表記されていきます。この記号は一定の法則で打っていくと、仮想世界の一つ一つのパーツを作ることになります。それを組み合わせていけば一つの場面ができて、場面の連続で立体的な空間ができ上がります」
ためしにリュージェは片手で素早く鍵盤をいくつか叩いた。すると、作業台にセットしてあった書きかけのページに記号の一まとまりが追加された。一息あけて、もう一つポンッと鍵を押すと、その本の光に触ってみるようリアに勧めた。言われた通り記号に手を触れてみると、リアの目に一瞬、人だかりの劇場の風景が浮かんだ。
「こんなふうに史料本を作るんです」
「不思議ですね。これは幻を見せる仕掛けなんですね」
リアは感心して本を眺めた。劇場の風景を見た時、その舞台で芸をしていたのは女影絵師だったような気がした。リュージェはリアの鋭さに顔をほころばせた。
「お気付きのようですね。今お見せした劇場の芸人は、私のいたずらで私自身をモデルにしていました。この史料本は、失われた過去の世界を今残されている物を手がかりに復元して、人々にその過去の幻を見せる装置です。それは影絵師が芸を凝らして“動く影”を見せるようなものなのです。
歴史の流れで衰退してしまったいにしえの活気ある豊かな都の姿、そこに住む人々の社会や文化、それをありのまま書き伝えた書物たちの魅力を見せたくて史料本を製作しているんです」
と、女学者は語った。しかしすぐに顔を曇らせた。
「でも、いつも困るのが史料不足なんです。古い時代の書物は戦乱や火事で失われやすくて、その他にも庶民の生活記録そのものが書き残されることが少なく、史料本の中でその町に住む人々を表す材料が足りないんです。はぁぁ……」
史料本製作者は首を垂れ、ため息をついた。
「ところで、リアさんは『塔の町』の絵はご存知ですよね? あの壁にかけてある絵です」
そう言ってリュージェは壁を指差した。その先には土っぽい色合いの塔が立ち並ぶ無人の町の絵が飾られていた。東西を問わず全大陸で見かける絵画である。いつも同じ視点から描かれているとは限らず、また画面の中の塔の数もまちまちであるが、一貫して人は描かれていない。リアはリュージェの問いにこくりと頷いた。
「よく見かける絵ですよね」
「あの絵に描かれている町については、たくさんの説があるんですが、その中であの塔は古今東西色々な世界の本が無限に所蔵されている大書物庫だという伝説があります。“異界の知の都”説です」
リュージェの説明では、この塔の中には、歴史上紛失してしまったとされる古文書や、昔の人の日記や、すでにその世界から姿を消してしまった小説や、個人の一代記から王国の興亡まで幅広いジャンルのことが記された無数の魔法本や、その他ありとあらゆる書物が所蔵されているのだという。または、この世界で燃やされてしまった本たちが逝きつく先だという説もある。
塔の町は書物を所蔵するためだけに作られた空間なので、塔の“外”はただ異界と繋がっているだけで他に何もなく、ゆえに絵の中では人は描かれないのだという。行き方は誰も知らず、ただ漠然と旅人が放浪の途中で突然目の前に現れる都だとしか伝えられていない。
「本当にこの説が正しいのであれば、私のような史料本製作者には夢のようなありがたい話です。特に、その時代を生きた人の日記が所蔵されているのなら、当時の文化を知る大きな手がかりになります。
この絵の作者が本当にその場所を訪れたのなら、その画家を探し出したら真偽を確かめられると思うのです。それには、情報を集めるために大陸を訪ねまわらなければなりません。私のチェスの参加理由はそれなんです。どうしても、史料本製作だけじゃ糊口をしのぐだけで精一杯ですから、ゲームの参加賞金を得たいと思ったんです」
リュージェのひたむきな探究心に、リアはにっこり笑って励ました。
「『探求する者は塔の町にも行ける』ということわざがあるように、塔の町はそこに行きたいと願う知を求める人たちを呼び寄せる場所とも言われています。求めるものが美である画家も塔の町の絵の魅力にインスピレーションを感じ、そこを一目見てみたいと世界中を探し求めれば、ふと気付くとそこにたどり着いたという話もたくさんあります。塔の町の絵が多いのは、それだけ多くの画家がそこを訪ねているということとも取れますよね。きっと行けると思います」
その時突然、机の小箱で大人しくしていたワインが飛び出し、下の階へと走って行った。来客だろうと思いリュージェは本を抱えたまま一階へ降り、リアも後ろから付いて行った。玄関まで家の主が来て扉を開けると、しかしそこに急に飛び込んできたのは瑠璃色の鳥カイヤであった。カイヤは一直線にリアの元へ向かって羽をばさばさ羽ばたかせ、危急を伝えに来た。リアはその手に鳥を乗せ大事な知らせを受け取ると、樫の杖を握りしめリュージェにその情報を話した。
「すぐこの近くまで、赤のポーンの一人が来ているそうです。名前はフーガといって、僕がアラネスを出た直後に一度出会ったことのある剣士です。
ルールには無頓着で、相手方のクロスをとにかく減らすことを目的として、不意打ちのまま容赦なくクロスを狙ってきました。
フーガの持つ魔剣は、目くらましの光を操ることができて、その隙にクロスを奪ってしまいます。
その時一緒に同行していた白のポーンのエンドワイズ・ジェインとフーガは、去年のチェスにも紅白分かれて出場していて、去年エンドが別の相手と勝負をしている最中に、フーガは魔剣の光で不意を付いてエンドのクロスを奪いました。というわけで、真正面からの戦いはできない相手です」
話を聞いて、リュージェは苦い顔をした。
「ううん、困った方なんですね。これから来るお客様は」
リアは辟易しながら頷いた。相手は待ったなしで攻撃をしかけて宣誓なしでクロスと盗む。しかしこの狭い家の中ではリアは魔法陣を開けない。
リュージェはふぅと溜息をついて、ロングスカートのポケットに入れてあった駒のクロスを首に提げた。
「この家を荒らされては大変ですので、私がお客様の相手をします。……ワイン、外に出てお客様が見えたらすぐ教えて。リアさんは、後ろで待機していて下さい。くれぐれもクロスには気をつけて。私は“試合”をしようと思います」
そういってリュージェは、史料本の背を握り表紙と扉の間に親指をはさんだ。ワインは言われたとおりネズミ用の小さな扉から外の様子をうかがいに出て、少し経つときぅきぅ鳴きながらまた戻ってきた。
ドアが外側からいきなりバタッと開けられた。客は無言で家の主を睨め付けた。
「ようこそお客さま、私は白のポーンのリュージェと申します」
緋色の髪の訪問者にリュージェはさらりと挨拶をした。フーガは物も言わずに腰に帯びた剣をさっと鞘から抜き放ち光の呪文を唱えようとした。魔剣の銀の刃からまばゆい光が発せられるその直前、リュージェは思いきり自作の本を対戦者目がけて投げ付けた。
魔剣の真っ白な光の嵐が書物の家を包み込んだ。光は数分間続き、リアはその光がやんだ時、玄関先に倒れた者とその横にしゃがんでいる者を見た。
リュージェは小豆色の瞳で、気を失っている魔剣使いの少年を見下ろし、その足元に落ちていた若草色の本をページが変わらないように慎重に表紙を持ち上げた。そしてポケットに自分のクロスを再びしまうと、そばにいたワインに「あとはお願いね」と言い置いて、リアの方に振り向いた。その切れ長の眼は眠たそうだった昼間とは違い、開け放たれたドアから刺す斜陽を受け怜悧な輝きを帯びていた。
「今この方は『夢の粱の話』の世界を見ています。これから私も本の中へ入り、古の都でクロスを賭けて勝負をしてきます。私が気を失っている時、この魔剣には注意を払うようお願いします」
そう言って影絵師は涼やかに微笑んだ。




