Ⅲ-ii 王様ふたり (8月1日) 4. 飲み会2
一杯目が呑み終わり、二杯目に頼んだ升酒も減り始めた頃、再び話題は“The Chess”に流れていった。真は今日あった奇妙な事件を含めて全てを親友に話した。
「しぃさんは騎士のロッドだから、黒騎士の伝説は知っているよね……?」
らすこは少し声をひそめて、唐突に突拍子もない話題をふった。いつもらすこは、こんな感じで、その時自分が気になっていることを何の脈絡もなく突然話題にする。しかし真は、そんな話題をふられても、すぐに答えが口をつく。
「“The Chess”で昔千二百二十時間かけて、ただ一人でチェックメイトに持ち込んだ伝説的な魔法騎士だよね?」
そう。確かロッドが一番憧れている騎士だった。その黒騎士は、チェスが始まった時、ちょうど自分の国で疫病が流行し、他のプレイヤーが自分と王以外みんな戦えないという悲劇的な状況の中で、一人で白の国のプレイヤー十六人を相手に根気強く攻防を繰り返して、最後には五十日余りをかけてチェックメイトに持ち込んだという伝説だった。当時は、まだ五十日ルールがなく、クロスにはめ込まれた石の色も、白と黒だったそうな。
「それがね、しぃさん……大図書館でその黒騎士の物語を絵にしたタペストリーを見つけたんだ、私。それがずっと心に引っかかるんだよね……」
らすこの話はこうだった。そのタペストリーは、大図書館一階、深閑とした書架の森の中にひっそりと掛けられていた。そこは扉の前だった。その扉は壁と同じ色で、部外者以外立ち入り禁止の、鍵の掛かった部屋だった。それを見た時、らすこは直感的にチェスに関係している部屋かなと思った。その場所はまるで隠し部屋のような場所にあった。
「しぃさんは、“The Chess”をどう思う?」
真も“The Chess”は不思議だと思う時がある。今日の朝も通学中のバスで、康の“向こう”での名前が無意識に口をついて出たし、さっきも久しぶりに会ったらすこを見て、突然“似ている!”と笑ってしまった。それを話すと、らすこはじっと友を見た。
「……これはね、私の仮説なんだけど、私たちが“あちら”で自分の知り合いに会ったら、その主人公になっている人物が感じるのとは別に、“自分が”会ったと感じるでしょ。しぃさんがプロミーを見てそう思ったり、しぃさんの学校の友達が、あちらでロッドに会った時、それがしぃさんだと分かったりしたんだよね? ということはね、……逆もあるんじゃないかなと思うんだよ、私。あちらの出来事を私たちが主人公の目を通して追うように、こちらの出来事を、代わりに自分が主人公になって見せているのじゃないかなと思うんだ……」
「じゃあ、らすこ……」
らすこは首肯した。真はにわかには頷けなかった。
「実はね、去年クロスを借りてから、ずっと考えてたことなんだ。もちろん、自分があり得ないことを言っているのはわかるよ、しぃさん……」
康を見て猫目の青年を思い浮かべたのも、らすこともう一人のナイトを瓜二つだと感じたのも、真の記憶からではなく、夢の主人公からだという仮説。そしてらすこはまたもや急に違う話題をふった。
「しぃさん、アーサー王伝説って読んだことある?」
真は首を横に振った。らすこは先ほどまでの少し低めていた話し声を、いつもの日常のことを話す時のような明るくて落ち着いた声音に戻した。そしておおまかなあらすじを語った。
「三年時の卒論のテーマに選ぼうかと思っているんだけど、大図書館を探してもないんだよね。一応、有名な話だと思うんだけど。それがね、紅雲楼で蔵書検索をすると、いつも蔵書場所は“不明”で“持ち出し禁止”マークが表示されているんだ。そういう本って、紛失していたり、地下の一般人立ち入り禁止の書庫に紛れ込んでいたりするものらしいんだよね」
奇妙な一致である。“The Chess”と関係の深そうな書物が、地下の書庫に隠れている、というのは。
大図書館の地下は一般人の立ち入りが禁止となっている。そこでは婦人用雑誌などのバックナンバーや、古くなった本や稀覯本が仕舞い込まれている。その静謐な場所に出入りが許されるのは、そこで働く者のみだった。
「え、じゃあ、ボランティアを始めたのも、そのため?」
真が尋ねた。らすこは酔いのない穏やかな瞳に決意の輝きを見せて真に言った。
「そうだよ、しぃさん。……だからね、私は探そうと思うんだ」
真は十一時過ぎに帰宅した。長かった一日を最後に迎えたのは母だった。
「さっき生穂が帰ってきた所。明日も講義あるんでしょう?」
遅い帰宅に真の母は少しなじるように言った。真は帰りを待っていてくれた母に、居酒屋で持ち帰りにしてもらったお土産を手渡した。
「生穂は休日の朝となれば遅くまで起きてこないよく眠る子だったのに、この頃は、家族の誰よりも早く起きて誰よりも遅くに帰って来るんだから……」
真の母は心配するように上を見上げた。
「部活のほかに、夏期講習もやってるんでしょ? 生穂は国立大目指してるから。講習が九時から三時半までだから、その間部活行けない分、朝練してるんだよね。たぶん夜遅いのも友達とおしゃべりしながら、最後まで残ってるからじゃないかな? イベント前って忙しいんだよね。八月二十七日と二十八日の定期演奏会には、行ってあげるんでしょ?」
真は台所へ行き、トートバッグに携帯していたお茶のペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、「おやすみ」と挨拶をして二階の自分の部屋へと戻った。
灰色の老猫ガンダルヴァが猫用のドアをくぐって真の部屋に入ってきた。そして、ベッドに腰掛けて、今朝届いた長い物語をのんびり読んでいた真の膝の上に登り、今夜も生穂は私をほったらかしにして、ブラスバンドの友達と長電話に夢中になっていると、にゃあにゃあ愚痴をこぼし始めた。隣の部屋では、妹が携帯端末を片手に夜遅くまで話し込んでいる声が聞こえていた。




