Ⅲ-ii 王様ふたり (8月1日) 1. 集中講義1
家族の愛猫ガンダルヴァは、今朝も生穂は私をほったらかしにして、ブラスバンドの朝練に行ってしまったとにゃあにゃあこぼしながら、寝起きの真の枕元にすり寄ってきた。手を伸ばして目覚まし時計を掴むと、朝の六時四十分。六時に一度、携帯端末の通知音が鳴っていたので、それから二度寝をしたらしい。
真は大柄な灰色猫を引き寄せて撫でながら、まだ鮮やかに残る夢の幻影に少しの間ひたった。若い騎士の大活劇……。名なしの森の不思議な少女との旅……。
真は独り呟いた。
「確かに会ったことがあると思う……おはよう、ガンダルヴァ」
早瀬真はつつじ女子大学福祉家政学部の福祉家政学科二年である。
福祉家政学科は二年時に、夏休みの初日から四日間、全員が必ず履修しなければならない集中講義がある。講義はⅠ講目の始まる午前九時から、Ⅳ講目が終了する午後四時十分まで一日中行われる。その間、学科生約百名は、定員百十席の階段状の大教室の中で、密に座って聴講する。講義の内容は四月に学生に配布された履修ガイダンスによると、講義名は『海外生活について』、詳しい内容については空白だった。この講義の単位認定方法は、四日目最終日のⅣ講目の時間にレポートを書いて提出することとあった。そういうわけで、福祉家政学科二年の学生は、一月半ある長い夏休みは、実際は八月五日から始まるということになるのだった。
夏休みの授業だからか、それとも今日の夢が四日分の体力を消耗したようにボリュームのある夢だったせいか、真はベッドから起き上がる時、いつもとは違って少し気怠さを感じた。今日はできれば、もう一眠りして夢の疲れを取りたいところだった。が、いつの間にか、業を煮やしたガンダルヴァが、部屋のドアの下に作られた小さな猫用の入り口の前にぴたりと座って、にゃあにゃあと真を急かしていた。真は苦笑しながら、急いでパジャマからブルージーンズと白のチュニックブラウスに着替えて、猫とともにダイニングへと向かった。
一階へ降りると、真はこれから出かける朝の早い両親に軽く「お早う」と挨拶をして、それからキッチンでガンダルヴァに餌をあげた。父は隣の市まで遠距離間を通勤するため、また母は仕事の早番で、七時過ぎにはそれぞれ出かけてしまう。ガンダルヴァの朝ごはんをいつも用意している高校生の妹は、八月末のブラスバンド部の定期演奏会の練習のために、すでに学校へ出かけていた。始めは飼い主である妹が寝坊をして餌の支度に手を回せなかった時だけ真が代わりに準備をしていたが、そのうち、家族の中で一番時間に余裕のある真が毎朝ガンダルヴァの面倒を見るようになっていた。ちなみにガンダルヴァはメス猫である。
猫が食事に夢中になっている間、真は身支度を整え、自分もトーストとコーヒーの朝ご飯を食べた。そして今朝届いた“The Chess”にざっと目を通し始めた。
真はこの“本”を今年初めて借りたのだった。この不思議な本を勧めてくれたのは、高校時代に一番親しかった親友であった。その親友は本好きで、今はつつじ女子大学の文学部英文科に通っていた。英文科と真の在籍する福祉家政学科は、住所は同じだが校舎が別棟のため、普段顔を合わせることはなかった。が、高校卒業後もしばしば連絡を交わし、都合がつけば連休などに運河近くの洒落た居酒屋で遅くまで語り合う気心の知れた友達だった。今夜もまた、期末試験明けということで、いつもの店で飲み会の約束をしていた。
「『騎士は白く霧がかる名なしの森で、初めて出会った少女の瞳に、凛として、そして懐かしく感じる影をみとめた』」
真は、まるでつい先ほどまで起こっていたことが活字となって再生されたような、携帯端末のディスプレイに流れる文字列を目で追いながら、名なしの森でプロミーと初めて目が合った時に感じた懐かしい気持ちをぼんやりと思い出した。その感覚は真自身が感じたことのように思えた。夢の主人公が出会った不思議な少女は、真がこちらで会ったことのある人のような気がしたのだった。真はもやの中に包まれた邂逅の場面に再びたたずもうと試みたが、時間が経てば経つほど夢の霧もゆるりと消えゆくのだった。
「誰なんだろう、白の王さまの読者って……」
真は回想の中から戻ると白い携帯端末をバッグに仕舞った。それから軽く化粧を済ませて、いつも通りリビングの時計が七時五十五分を示す頃、留守番の老猫に優しく「行ってくるよ」と挨拶をして学校へ出かけた。




