Ⅱ-ii 夏休みの学園祭(8月1日) 1. 夏休みの学園祭
私立つつじ女子大の学園祭は毎年十月に、大学の構内で開催されるが、他の私大に比べて参加者が少なく、あまり盛り上がらなかった。というのも、その理由の一つに、校舎が市街地から少し離れた山の上にあり交通の便が悪く、学園祭を見に来る他大生が集まらないということがあった。
そういうわけで、十月の学園祭はサークル活動のささやかな発表会にとどまっていた。しかして、その日ゼミの相談や授業の提出課題などの所用で学校に訪れた、学園祭に参加したことがない学生は、まるでふつうの休日のようにひっそりとした構内の静けさに少し戸惑うのだった。
それがいつの頃か、暗黙の了解のうちに学生たちは、夏休みの始まる八月が本当の学園祭期間だと考えるようになった。といっても、八月の学園祭は普通の大学のように出店や有名人を呼んだ威勢のいい催し物を並べ立てるのとは違っていた。“夏休みの学園祭”は、八月一日からだいたい八月三十日までの間、交通アクセスの便利な広い大図書館内で、学生たちがサークルやゼミや大学内の友人同士で、主に市民相手にボランティア活動を行い、または夏休み期間限定のアルバイトに参加することであった。
ある学生はサークル仲間と、週末の午後に噴水のある中央広場で、小さな子どもを相手に綿飴屋やヨーヨーすくいなどの縁日を開き、またある音楽系のサークルでは、夕べのテラスでささやかに楽器演奏をする。その他にも本の朗読会から、スクリーン室での映画上映会など、この期間、学生主催で連日何らかの催し物が行われるのだった。それらの中には、大学付属の高校生の部活動やサークル活動の発表も含まれていた。
この他にも、総合案内や各種カウンターの受付などの裏方的な仕事を通年行っている学生たちも、来館者が多く活気あるこの期間は、何となくいつもよりもずっと精を出してしまうのだった。
これらの催し物や活動全体が、学生を含め市内の人たちなどに、八月の学園祭と見なされていた。もともと十月の学園祭は、参加したい人だけが活動するのであって、不参加の学生は当日みな休講日となっていたので、自発的な人にとっては長期休暇中であっても変わりがなかった。
この風習の始まりは、保育学科の実習で、夏休み期間に大図書館の一室を借りて、市内の子どもたちを相手に、自分たちで作った人形劇や紙芝居などを行うボランティアを、卒業までに一度しなければならないという必修課題から始まったのだというのが通説だった。そういうわけで、この期間で中心となるのは、そんな必修科目のある保育学科生と、ボランティアに馴染みの深い福祉家政学科の福祉系を選択している生徒たちであった。
この学園祭には、大行事には付き物の実行委員会という特別な係りはなかった。何かをするために施設の一室を借りたければ、紅雲楼で申し込みをすればよいし、催事プログラムは施設側が管理していた。しかし、そのような事務作業もまた学生アルバイトを中心に行っていたのだった。
“四番街”と呼ばれる建物八階に、大図書館の事務所がある。屋外から見た場合、建物中央より少し西寄りに突き出た四角いビルがそうである。そこでは、正職員である司書と、アルバイトが入り混じって事務仕事をしていた。
「甲府さん、ちょっと教えて頂けませんか?」
オフィスデスクとパソコンの並ぶ八階事務室で、凛は最近このアルバイトに入ったばかりの同じ学科の後輩に声を掛けられた。質問の内容は、施設利用の申し込みのあった催事情報と、パソコンでの入力に間違いがないか確認する方法についてであった。凛は四年間このフロアのアルバイトを続けているベテランであった。職場内でも一目置かれ、小顔に大きな黒縁眼鏡がトレードマークとなっていた。
凛はその後輩の横に立ち、きびきびとやりかたを教えていった。
「ああ、これはね、申込用紙にあるこの欄は、パソコンのリストではこの部分で、それから次に、上のダイアログボックスをね、……。……。……。……そう」
「ありがとうございます。ええと『にんぎょうげき、どん・きほーて』」
タブレットに入力された申込書と見比べながら、後輩は画面を眺めた。凛はそのあと、その後輩が慣れるまで少しその場で見守った。
“『人形劇 ドン・キホーテ』
八月一日~八月十八日
(月~金)
十五時~十五時四十分
二階 森のひろば
代表者:
保育学科二年 木村 早夜芽
(キムラ サヤメ)
『紙芝居 傾城西遊記』
八月一日~八月十八日
(月~金)
十時~十時四十分
二階 白ねこひろば
代表者:
保育学科三年 伊藤 あさぎ
(イトウ アサギ)
『仕掛け絵本 孤島殺人事件』
八月一日~八月十八日
(月・水・金)
十四時~十四時四十分
二階 こびとのからくり部屋
代表者:
保育学科二年 仙島 冴
(センジマ サエ)”
それからその後輩は、切れのいいところで保存ボタンをクリックすると、手を休めて凛にお礼を言った。そろそろお昼休みの時間だった。
「どうもありがとうございます。この事務室でのアルバイトって、他のエリアのアルバイトに比べて人目につかず地味だけど、全体を統轄している感じで、けっこう重要な仕事ですよね。……あの、ところで、もしかして甲府さんのネックレスって、“The Chess”のクロスじゃないですか?」
糊の効いたレモン色のワイシャツの襟元にささやかに見える銀のクロスを認めて、後輩は尋ねた。 凛が「ええ……」と答えると、後輩は語った。
「私、観戦者用クロスを借りてるんですよ。今朝はなぜか盗賊の町の贋作画家の夢を見たんですよね。日頃の行いでも悪いのかな。しかも、その長いローブを着た画家は、弟みたいに気にかけていた魔術師の青年のために、たぶん大損しそうな賭け事をしているんですよ。何か、胸がすっとするような度胸のいい大賭けで、朝起きた時も爽快さが残っていました」
後輩は冗談交じりに笑って言った。凛はその話に思い当たる節があった。盗賊たちの集まる洞窟の隠れ家で、魔術師と盗賊どちらが先に駒のクロスを捕られるかの大賭博。その賭けで画家フィエルは一人だけ魔術師に賭けなかったという話である。凛はふっと、この後輩に貸しがあるような気持ちになった。
「学園祭が終わったら、今度何かおごるね」
凛は黒縁眼鏡を押し上げて、小さくそう言った。




