XV-ii 赤いドレス (9月31日) 9. 黒騎士のタペストリー 2
らすこは大図書館二階総合カウンター奥のスタッフルームで、昼のボランティアの準備をしていた。らすこは夏休みが終わっても、休日は昼のボランティアを続けていた。それはこの図書館の司書に就職するために職場に慣れておきたいからであり、そのことは同じ仕事の司書たちにも伝えてあった。図書館でお世話になっている司書たちには、らすこの真面目な仕事ぶりは好評だった。
らすこがエプロンを着け作業の準備をしていた時、ボランティア担当の髪の短い若い司書がらすこに話し掛けた。
「らすこちゃんはこの図書館の司書を目指しているんだよね?」
らすこは礼儀正しく答えた。
「あ、はい。そうです」
司書は明るく笑った。
「今、館長が館長室にいるから顔を見せてって伝言があったよ。多分就職のことじゃないかと思うよ。館長室は分かる?」
らすこはふいに訪れた機会に動揺した。館長から呼ばれるということは、もしかしたら深夜の図書館にいたことを咎められるのではないか、と不安になったからだった。あの時は、司書のくりがすべて責任を取ると言っていたが、豊と連絡を取ることはあっても、その後についてはらすこは何も知らなかった。
「はい、空かない茶の扉の一つですよね? 行ってみます」
不安をあまり顔に出さないよう気を付けながら、らすこは四階へ向かった。
今日も四階の西側は静かだった。らすこは“haigha”の文字の書かれた茶色い扉を静かにノックした。ちなみに“haigha”とは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に登場するうさぎのキャラクターで、かの作者の前作『不思議の国のアリス』に出てくる三月うさぎのことだとえんじから話を聞いていた。
中から「はい。どうぞ」と若い女性の声が聞こえた。らすこは一息置いてから扉を開けた。そこは応接室で、窓側に大机があり、そこにはピンクの髪色の派手やかな女性が座っていた。らすこはその容姿に驚き、初対面ということで緊張した。部屋の主人はらすこをソファに座らせ、その向かいに自分が座ると明るい声で挨拶した。
「初めまして、私は館長の弥生リアルです。あなたは文学部英文学科二年の川端らすこさん、ですね?」
「はい」
らすこは短く答えた。青い瞳がらすこをじっと見た。そして突拍子もないことを言った。
「これから一階二番街の“The Chess”のクロスなどの備品を管理している部屋を紹介するわ」
「え……」
らすこは突然の話に唖然として女性を見た。
「……あの、私は司書ではないのですが、そんな秘匿された場所に行ってしまっていいのですか?」
館長はにかっと強気の笑みを浮かべた。
「この図書館に就職したかったんでしょ?」
「……え、ちょっと待って下さい。ではこのお話は内定を頂いた、ということですか?」
館長は当然だとばかりに大きく頷いた。そして言った。
「“The Chess”の“仕組み”を知っているでしょ?」
らすこは言葉に詰まった。“仕組み”とは深夜の図書館で見たことについて言っているのだった。しかしそれを詰問する様子は全くなかった。館長は話を続けた。
「あなたにはこの“The Chess”の運営を担当して貰うわよ」
いきなりのことで、らすこは話に付いて行くことで精一杯だった。館長は話を続けた。
「今は学生だから仮採用ということで、週に一回来て貰えればいいわ。週末は司書講習もあるでしょ? 頑張って資格を取ってね。
ボランティア期間が試用期間ということで、これからは月給制で給料も発生するわ。賞与は年二回。仕事は蔵書整理だけでなく他のことも司書たちから教えて貰えるように手配するから。
待遇や雇用契約などの事務的なことは事務方に伝えておくから、そこから聞いてね。それで問題があったら、また私を呼んで。ああ、いつでも呼んでもらえるよう、後でメールアドレスを伝えておくわ。ここの司書は皆知っているの。大丈夫?」
らすこが付いてきていないようで、話し手は一度話を区切った。らすこは今何といえばよいか分からず、ただ一言「あの、ありがとうございます……」と告げた。面接もなく、履歴書も作成せずにいきなり採用の話が来るとは思っていなかったらすこは、心の準備が出来ていなかった。
リアルは付け足した。
「大丈夫、本採用された時には司書の“先輩”もいるから」
それからリアルは、らすこが落ち着くのを待った。らすこはこの館長の突拍子の無さに少し慣れた。館長は続きを話した。
「これから、“The Chess”の備品室の説明をするけど、一階二番街の書架の中にある黒騎士のタペストリーがある扉は知っているわよね?」
リアルは知っていて当然というように、らすこに尋ねた。らすこははっとして頷いた。
「それじゃ、先に行ってくれるかしら。私も鍵を持って後から行くから。その鍵も、これからはあなたも持ち出せるようになるから」
「分かりました」
らすこはこれからここで働くと実感した。