XV-ii 赤いドレス (9月31日) 2. 祝杯 1
ピシピシッ……ピシッ……。
クオは自分の家に落ち着いた途端、家にかけていた錠の魔術を解除される聞きなれた音を耳にした。例によって例のごとく、隣人のシーフは家の主の許可などお構いなしに押し入ろうとしているようだった。そういえば、チェスが始まった出立の日、フローは『またこの次祝杯する時も宜しく。次はゲームの終わった時だろね』などと言っていた。
クオは小さくため息をつくと、入り口に近付いてドアを開けようとした。
「――フロー、どうしてそう俺の家でワインの盗み飲みを……」
「あら、ワインなら私が最高級品を持ってきたわよ?」
戸を開け放したクオが目にしたのは、幼なじみではなく、大きなリュックを背負った行商娘ガーラだった。
ガーラは隣に用心棒の大蛇を従えて、黄色い瞳を明るく輝かせながら、小屋の中を眺め回した。
「へぇ、ここがクオの家なのね。ずいぶんこざっぱりして簡素なのね。ああ、書庫みたいに本でいっぱいねぇ。魔術師の家ってどこもこんな感じなの? それとも家の主が勉強家ってことかしら。久しぶりね、クオ。ご馳走なら私のリュックの中にちゃんと用意してあるから、迷惑はかけないわ。祝杯するんでしょ?」
クオは意外な客に驚いた。だがなぜガーラが“祝杯”の話を持ち出すのか掴めなかった。その答えは、すぐさま家の中から返ってきた。
「なにしてんのさ? 早く中に入って入って」
「フローっ、いつの間に家に入ったんだよ! しかも人の家のグラスを勝手に並べて……」
「それじゃ、あがらせてもらうわ」
クオがガーラの訪問に驚いている間に、フローはまったく家の主に気付かれずに中に侵入し、しかも抜け目なく戸棚にしまわれていたグラスをテーブルに三つ並べていた。ガーラは、侵入者に向けたクオの小言など最後まで聞かずにその横を通り過ぎて、家の中に入っていった。ガーラのお共の大蛇は、クオの横を通り過ぎる時、鎌首をもたげて家の主にしなやかに一礼をしていった。
「どうなってんだよ……やれやれ」
なぜガーラとフローが一緒に現れたのか話が掴めなかったが、クオは諦めてその“祝杯”の席に向かった。
「んん! やっぱクオんちのワインは美味しいねぇ!」
「……っ! フロー!」
やはりクオが思ったとおり、フローは家の主が一瞬目を放した隙に、秘蔵のワインを遠慮なく開けていた。が、その様子をまったく気にせず、ガーラはここに至るまでの話を話し始めた。
「チェスの間、私とフローはお互い足止めの状態でいたんだけど、そこで話が合って、気が合ったのよ。チェスの後は私はしばらく西大陸で商売しようと思うんだけど、フローがお勧めの町なんかを教えてくれることになってね」
ガーラはリュックから自分で用意した白ワインを取り出して大蛇に渡した。大蛇は女性の姿になって、フローの用意したワイングラスのクオとガーラの分に丁寧に注いでいった。
「じゃあ、お前たちはこれから一緒に旅するのか?」
クオが大蛇に会釈してグラスを受け取ると、意外な組み合わせに二人を見た。フローが軽快に答えた。
「しばらくオレは目立たないように旅しててもいいかなと思ってさ」
シーフは悪目立ちすることを好まない。ウィンデラのシーフならなおさらだった。クオは意外な別れに少し寂しく思った。いや、とクオはその感情を即否定した。
「ところでさ、クオ、窓辺に光の伝書鳩が来てるね」
フローはクオの大事な赤ワインを一杯飲み干して、大蛇から二杯目のワインを貰いながら窓辺に目線で示した。光の伝書鳩はクオが自宅に到着する前から家の主を待っていたようだった。クオは窓辺へ行き、その小さな鳩の足に付いてある紙切れを解いた。手紙には、エルシウェルドにある魔術師協会の名前が書いてあった。
「多分、いい話でしょ、もぐりの魔術師ちゃん?」
フローはなぜか先のことが読めるという風に、にこにこ笑っていた。クオは変な詮索をされないように壁際の隅に立ち、一人で手紙を読んだ。
手紙の内容はこうだった。一つは、クオを魔術師協会が認定した魔術師にしたいということ。もう一つは、エルシウェルドの魔術学校で講師の職を引き受けて欲しいということ。クオは良い話が飛び込み、チェスの威力を感じた。自分にも新しい道が現れたことに、まだ馴染んでいなかった。
「何て書いてあったか、聞いてもいいかしら?」
ガーラが少し固まったクオの様子を見て、控えめに尋ねた。クオは簡単に手紙の内容を伝えた。ガーラは祝った。
「良かったじゃない。引き受けるんでしょ?」
クオはまだ現実感が無かったが、「……ああ、そうだな」と短く答えた。フローはクオに白ワインの入ったワイングラスを差し出した。
「じゃ、ここで祝杯を上げようよ、クオ。三人の旅立ちを祝ってさ~」
「いいわね。また今度会う日まで」
「乾杯!」
クオはグラスを一度持ち上げたが、祝杯の手を止めた。エルシウェルドの魔術師になるのはクオはいつも目標としていた。しかし今はそれより気になることができた。
「難しい顔してどうしたのさ? クオ」
クオはよく考えた。この降って湧いたような話より、大事なことがあるような気がした。どれが本心か自分に確かめようとした。
「そんなに肩肘張って考えなくてもいいんじゃない?」
フローは茶色の眼に笑みを浮かべた。クオは長年の知り合いに見透かされていることにため息をついたが、二人に聞いた。
「……二人の旅は、もう一人増えてもいいか?」
クオは二人を見た。ガーラが答えた。
「私はそのためにここに来たつもりよ、クオ。でも魔術師協会の方の職はいいの?」
クオは落ち着いて、一番正直な気持ちを考えながら答えた。
「そうか。誘いの訪問だったのか――迷惑かと思ったが、杞憂だったか。
魔術師協会には魔術師の承認は得たいと思っている。だが、教師の職は、旅をしながらでもできる。公式の魔術師になれば、旅をしながらクエストなどの仕事は取れる。俺は独学でここまで魔術ができるようになった。今回チェスに参加して、アルビノの魔術師の後裔がいたなど、俺の勉強した範囲では分からないことがあることを発見した。アルビノの魔術師は西大陸を放浪したという。騎士や職人は故郷を離れて旅をして一人前になるという。俺も同じようにその方法で勉強したい」
フローはクオの前に杯を掲げた。
「相変わらず真面目だね、クオ。実はもう、シーフの親方はクオはまた旅に出るって予想していたんだ」
「また、賭けをしたのか?」
クオはフローを軽く睨んだ。フローは否定した。
「いいや、でもこの町の人皆クオのこと思ってるからさ」
クオは肩の力を抜いて「そうか……」と答えた。ガーラが仕切り直すように言った。
「それじゃ、乾杯し直そうかしら。三人の旅を祈って」
「乾杯!」
三人は祝杯を上げた。