Ⅻ-ii “お休み”の日 (8月29日) 1. 鏡の館
暖炉の大鏡の向こう側からこちら側に振り向いた者は、えんじを見てにっこりした。リアの周りにいたプロミーとラベルは同じように大鏡の方を振り向き、今気付いたとばかり、鏡の向こうに集まった者たちを眺めて驚いた。
「これはどういうことですか……? リアさん。この城は異界と繋がっているということでしょうか?」
ラベルが状況を理解しようとして、リアに尋ねた。リアはくりに視線を移し、目元に笑みを浮かべた。くりは口元をほころばせて笑みを返すと、茫然としながら魔法本を胸に抱く豊の背を軽く押して言った。
「その本を鏡の向こうへ渡して下さい、豊。これはあちらの世界の人が借りた本ですので、借りた人に返さなくては」
「え? くりさん、どうやって……??」
豊は動揺してくりに振り向き、それからえんじの顔を仰いだ。その場で茫然としていたえんじは、冷静なくりの言葉を受け豊に頷いて見せた。豊は鏡の正面に立ち、手に持つ厚い本を鏡の前に差し出した。
「ありがとうございます」
リアは丁寧に頭を下げて礼を言うと、暖炉の前に立ち、鏡の向こうへ手を伸ばした。
白い腕が湖面のような鏡の中から突き出した。えんじは夢ではないことを意識した。異界の司書の手は豊の持つ本を受け取り、本は向こうの世界へ渡された。
鏡の館では唖然とした空気に覆われた。らすこは今見た光景に息を飲み、豊は茫然と鏡の向こう側を眺めた。えんじは魔法の本はもう戻らないのかと少し惜しく思った。
リアは魔法本を受け取ると、表紙を開け、右手でさらりとさすった。その手からは淡く白い光が放たれた。少し経つと、司書は本を閉じた。
「この本の貸出期限を延長しました」
リアはそう言うと、暖炉の鏡の向こうを見つめた。
「塔の町から借りた本は貸出期限の延長は何度でもできます。それで良かったですよね? リン」
旧友の言葉にリン・アーデンは我が意を得たり、と微笑んだ。
本の借主の了承を得ると、リアは再び暖炉の前に立ち、鏡の中に本を差し出した。本を持った腕は鏡の中を渡ってこちら側に向けられた。その時、いきなり鏡の館の入り口が大きく開けられた。
「えっ!? ……プロミー?」
ブレザーを着た女子高生がいきなり鏡の館のドアを開け、辺りの様子に驚いて立ち止まっていた。部屋では新しい来訪者に皆一度静止したが、らすこが知り合いだと気付き声を掛けた。その後くりが落ち着いて挨拶をした。
「生穂ちゃん?!」
「早瀬生穂さんですね。せっかくですので、どうぞお入り下さい」
「コレ、夢じゃないの……?」
生穂とプロミーは視線を合わせた。生穂は目をこすった。鏡の向こうでもプロミーは突然の邂逅に驚いていた。
「夢以外で会えるなんて思わなかった。プロミー……あれ……」
「あなたは……生穂さんですね」
生穂は部屋の中に入り、鏡を見つめた。プロミーは鏡の向こうの生穂を見つめた。その青い眼は穏やかに落ち着いており、音楽会に熱心に取り組む快活な少女を温かく見守るような大人の表情をしていた。それは王様の眼のようだった。プロミーがそっと口元に笑みを浮かべた。生穂は青年の眼をした少女に軽く頭を下げた。
豊が新しい訪問者が鏡の中の人と挨拶が終わったのを見ると、改めて鏡の向こうから差し出された本を受け取った。くりが異界の司書の代わりに説明した。
「この本は、塔の町の司書から再び二千年を期限に“借り直し”されました。借り主は聖杯城の主ですが、好きなだけえんじが持っていて大丈夫です」
豊がえんじに本を手渡した。異界から戻って来た本は、特に何も変わった所は無かった。えんじは鏡の向こうのリアに静かに礼をした。
「ありがとう、クロスを持つ司書」
「それでは、私達はもうここから出なければならない時間です」
くりが時計を見て部屋にいる皆に言った。時間は零時過ぎだった。
「零時半には施錠される予定ですので、早く戻った方がいいですよ、生穂さん」
司書は生穂の背を押し、自身も他の三人を連れて部屋から出た。
「今日あったことは、他の人に話してもいいのですか?」
らすこが部屋の鍵を閉めるくりに尋ねた。司書は頷いた。
「信用できる人ならいいでしょう。しかしうちの図書館の“The Chess”の取り扱いとして、インターネットで不特定多数にこの秘密を発信することは控えるよう館長から言われています。司書はこれを守らなければならないのですが、できればあなたも守ってくれますか」
らすこは素直に頷いた。
「今日八月二十九日は図書館が“お休み”なので“The Chess”の更新はされず、今あったことは文章化されません。今夜のことは、司書の私が全て責任を取ります。それでは、今日はこれで解散しましょう。皆さん、深夜ですがお気を付けて帰って下さいね」
くりが解散を促した。
「今日はえんじの家に泊まっていってもいい?」
豊が興奮冷めやらぬ調子でえんじに聞いた。えんじは了解した。
「いいさね、豊なら」
「それと、もし良かったら、川端さんもどうかな? 明日は図書館が“お休み”でアルバイトもボランティアもないし。もしダメでも、私が車で川端さんを送って行くよ」
豊がえんじとらすこの両方を見て尋ねた。えんじは快諾した。
「私はいいさね。一人暮らしの気楽なアパート暮らしだから」
らすこは二人を見て、遠慮がいらないようなのを確認して、喜んで答えた。
「私が混ざってもご迷惑をお掛けしないなら、ご一緒したいです」
「じゃあ、今日は飲み会だね、えんじ!」
豊が新しい仲間を祝福して言った。




