Ⅺ-ii 定期演奏会 (8月27日、8月28日) 5. 夜の図書館
八月二十八日夜の二十一時三十分、えんじと豊は夜間アルバイトが終わってから、いつもの四階外国語資料コーナーで司書のくりと待ち合わせをしていた。今夜は四番街の九階から十二階にあるコンサートホールで、つつじ女子大学付属高校の吹奏楽部の定期演奏会があって、夜でも館内が賑やかだった。三人は揃うと西側の突き当りにある開かない茶の扉の元へ行った。
「今日は毎年恒例の定期演奏会が夜の二十時まであって、その後二十一時から打ち上げなどがあるので、深夜まで館内が開いているのです。私たちもここで待っていましょう」
くりは口元をほころばせて言った。三人は開かない茶の扉の一つ『Through The Looking-Glass and What Alice Found There』の前に立った。くりは金色の鍵を鞄から取り出し、その頑丈な扉の鍵をガチャリと開けた。
そこは右手に暖炉とその上に大きな鏡が付いている洒落た洋風の部屋だった。暖炉の右側には小ぢんまりとした茶色のドアがあった。窓は無く、暖炉と反対側の壁には、チェスの棋譜の載ったタペストリーが掛けられていた。机や椅子やテーブルは無かった。えんじは中に入ってみて、すぐ何か鏡がおかしいと気付いた。
えんじは大きな鏡の前に立った。鏡はえんじを映さなかった。
「え、どうしたの、えんじ?」
赤い魔法本を抱えた豊がえんじの隣に立って鏡を見た。やはり鏡に映る風景に変化はない。えんじがじっくり見ると、鏡は向かい側の壁を映していなかった。その鏡の映す風景は、反対側になった暖炉と、石でできたお城の誰もいないどこかの部屋、のように見えた。
「くりさん、ここは……?」
えんじは司書に尋ねた。
「ここは不思議な部屋ですよね。以前私が確認に入った時は、暖炉の鏡は普通に部屋を映していました。この部屋には内側にドアがあるけれど、隣の部屋にはドアはないんです。このドアの鍵も館内の鍵用金庫にはありません。――やはり待ち合わせにはこの部屋でいいようですね」
くりは暖炉の隣にあるドアのノブを掴んで開かないか確かめた。ドアは動かなかった。
「今夜はもう少し待っていて下さい。ちょっとお客さんが来たみたいなので私がお迎えします」
ふとくりは出入り口のドアへ向かいゆっくり開けた。外には女子大生が一人ドアのそばに立っていた。
「一緒に今夜は鏡の向こうを見ましょう、白の騎士さん」
くりは驚き立ち止まっていた者を部屋の中へ引き入れた。
「すみません。立ち聞きしていました……」
女子大生は素直に周りの者たちに謝った。えんじと豊は新しい訪問者に驚いた。
くりはにっこり微笑んで尋ねた。
「白のナイトの英文学科二年の川端らすこさんですよね?」
らすこは頷いた。
「はい。“The Chess”の謎を解こうと思って館内の書架を調べているうちに、外国語資料コーナーに集まって皆さんが同じことを調べているのを知り、遠くでうかがっていました」
「くりさんは知っていたんですね?」
豊があっけにとられて尋ねた。くりは頷いた。
「たぶんらすこさんはこの部屋にぴったりの人だと思います。ところで、その魔法本をらすこさんにも見せて頂けませんか」
くりは豊に頼んだ。豊はえんじに一度振り向き無言で確認を取ると、新しい訪問者に魔法本を手渡した。らすこはしゃがんでゆっくり本を眺めた。眼が慣れてくると本を読みふけった。らすこは伝説の黒騎士の話を読んでいた。
「これはしぃさんに知らせたいな……」
没頭するほど読んでから、らすこは本を豊に丁寧に返した。
「私はこの図書館に蔵書場所は不明で“持ち出し禁止”と出るアーサー王物語の洋書を探していたのですが、探す本が間違っていましたか? 司書の蔦本さん」
らすこは立ち上がるとくりに尋ねた。司書は首を横に振った。
「おそらく私たちの手の届かない場所にあるのだと思います」
司書は優しい口調で謎に挑んだ者を労った。しばらくえんじと豊とくりはそれぞれらすこに自己紹介をし、同じ謎を共有する者同士雑談をしながら時間を過ごした。
えんじは鏡を見た。鏡の中で人の気配がした。よく見ると、鏡の向こうの部屋に人が歩いてきたようだった。人数は四人。えんじの様子を見て、くりと豊とらすこは静かに大きな鏡の中を見つめた。
先頭には白髪の青年が立ち、その後を少女と同行の騎士、後ろに緑衣の旅人が古城の広間に迎えられた様子だった。鏡の中で暖炉に火が点いた。明るくなった広間では古城に誘われた旅人達が白髪の青年の話に耳を傾けた。彼らは“こちら側”の様子に気付いていないようだった。
「あ!」
豊が小さく叫んだ。新たな客らすこと騎士の青年の顔立ちがよく似ていたからだった。らすこはこそばゆいそうに頬をかき、豊に軽く頷いて見せた。それからその場にいた四人は再び静かになった。
えんじはゆっくりと話される白髪の青年の話を聴いた。鏡の中の暖炉の温かさがこちら側にも伝わるようだった。