Ⅸ ミドルゲーム 3. 白い手の乙女 17
演奏が終わると、イズーはほうっ、と淡く溜息を吐いた。
「――このまま、ずっとリアさんの奏でる曲を聴き続けられたらいいのに」
イズーはほろりとささやいた。その声には、楽しい時の名残惜しさとともに、旅立つ旅人への気持ちが含まれていた。リアは楽器を鞄の横に置き、イズーがまだ先に何か告げる様子なのを見て、黙して待った。イズーは告げた。
「この城の主になっては下さいませんか?」
城主は旅人の眼を見据え、求婚の言葉を贈った。イズーは篤く説いた。
「考えてはいただけませんか? いいえ、このチェスが終わってからで良いのです……」
イズーはこの言の葉にリアがいつものにっこりとした笑顔で「……ええ、いいですとも」と応えてくれることを、昔からずっと淡く願っていた。しかしそれが叶わぬことも、イズーはよく知っていた。
リアは顔をかげらせて目を落とした。
「今までイズーのお気持ちに気付かなくて、申し訳ありませんでした……」
リアは呟くように答えて口をつぐんだ。続く言葉がないことが、長年の知己には黙したままに伝わった。
イズーはその気持ちを受け取ると、今まで胸にしまっていたことを旅人に尋ねた。
「そのずっと探されている古い友人の方を想われているのではないのですか?」
リアが探し人を語る口調は、友人を思う気持ちの中に、かすかに恋慕の情があることをイズーは感じていた。ゆえに本当に“彼”なのかも、イズーはずっと首を傾げていた。
リアは目を伏せたまま、切なそうに呟いた。
「……僕は結局、自分が一番好きなのかも知れません」
イズーは小さく首を横に振った。恬淡なリアには似合わない言葉だった。
「どうしても、行ってしまわれるのですか……」
イズーは問うた。答えがないことは知っていた。
沈黙の中、リアはグラスに手を伸ばした。イズーはその様子をただ無気力に眺めた。止める気力を失っていた。
リアはしばしグラスを見詰めた。イズーは手が震えた。その杯を飲むとリアは――。イズーは叫んだ。
「……飲まないで下さい!!」
リアは驚いて、ワインを口元に運んでいた手を止めた。
「その杯には、私が調合した毒が入っているのです……」
イズーは力なく呟いた。今回のチェスで、リアはずっと探していた想い人のもとへ行ってしまう。明日この城から去ると、もうこの旅人は帰ってこない、と思った。
「行って欲しくなかったのです……」
イズーは小さく言葉をこぼした。涙が頬を伝わっていった。リアはその様子を見ると、手にしていた杯を傾けて、黙々と飲み干した。そして青ざめた顔で見詰めるイズーに、悲しそうに告げた。
「……僕はこの世界の毒は効かないのです。見た目の姿も偽っています。話さなくてすみませんでした、イズー」
そう伝えられた時、イズーはやっと、リアがなぜ年をとらないかの理由に気が付いた。リアはグラスを置くと一言、
「僕は時間に嫌われし者です」
と言った。
それからリアは何も言わずに、鞄の横に置かれたヴァイオリンを再び取り出して、故郷の曲を演奏し始めた。心が落ち着く優しい曲だった。イズーはそれが遠い国を想わせるわけを知った。郷愁ただようそれは、異界の町を謳った曲だった。ヴァイオリンの歌声は、聞く者の涙を優しく拭いた。
演奏が終わると、イズーは穏やかにリアに尋ねた。
「あなたは“鏡の国の者”ですか?」
西大陸の者なら、異界から来た者といえば“鏡の国の者”くらいしか思いつかなかった。
リアは首を横に振った。
「僕の国は、西大陸では知られていない所にあります。時間に嫌われし者たちのほとんどが、西大陸では知られていないような場所から来ています」
異界の旅人は語った。
「異界に渡った時、時間に嫌われし者たちは、魔力に満ちた場所に導かれて降り立ちます。そこを“駅”と呼んでいます。西大陸では魔術師の町エルシウェルドが最大の駅です。そういう所は居心地もいいので、よく異界からの来訪者が集まります……。
異界間の時の流れはばらばらで、時の流れの速い世界と遅い世界とがあります。僕はここより時間の流れが速い国に生まれました。なので、今のイズーと僕は同じような年齢です」
リアはそこで言葉を切った。
「……私は幼い頃から、リアさんの年齢に追い付けることが嬉しかったものでした」
イズーは下を見つめながら、小さく呟いた。
「僕もイズーが自分の年に近づいてくることを嬉しく思っていました」
思わぬ答えにイズーは一瞬リアを見た。リアはにこりと笑っていた。
「長い付き合いの中で、絆を大切にしたい人が自分と同じ世代になることを、僕はいつもひそかに心待ちにしています……」
リアはこっそり秘密を打ち明けるようにイズーに話した。優しい瞳だった。が、それからふっと言葉が途切れた。
一息置くと、リアは続けた。その言葉には影が差していた。
「でもそれは自分のわがままで、いつか追い越されてしまうことも、知っているのですが……」
リアはそう言うと顔を曇らせうつむいた。追い越された先に必ず起こる別れを話しているのだ、とイズーは感じた。
イズーは尋ねた。
「異界の方々は皆姿を変えているのですか?」
「偽らなくてはいけないという決まりはありません。“時間に嫌われし者”は何十年何百年と異界で過ごすので、姿が変わらない不老のままでいると目立って住みづらくなるため、自分の姿が違って見えるように幻惑の魔術をかけています。性別の見た目も変えています」
「その深い緑色の瞳は……」
時に奥深い眼差しをする瞳の色が嘘だとは思えないのです、とイズーは心の中で思った。リアはイズーの皆まで口にしなかった問いに肯った。
「この瞳の色は、僕が偽っていない色です。気付いてくれて、ありがとうございます」
リアは小さく微笑んだ。イズーは心の中を訴えた。
「……私はリアさんが姿が違うと聞いて、心が変わることはありませんでした。ですから私は……」
リアはイズーが全てを語るのをさえぎり、目を伏せたまま告げた。
「僕は時間軸が同じじゃなくても、姿が違おうとも、その気持ちが消えるものではないことを知っています、イズー。……」
イズーは胸を突かれた。リアは俯いたまま言葉を続けた。
「相手が別の人を想っていても、一緒にいるだけで心が温かくなることも、たまにふと欲を出したくなることも、いつの間にかこっそり不安がよぎることも、知っています。……」
拒絶、ではない。しかし、どこまで近付こうとしても、心の中の薄い壁の先へは行けないのだった。
「また、この城に立ち寄っていただけますか?」
イズーは尋ねた。
「この仕事が終わったら、宜しかったら訪ねます」
リアはイズーの心を思いやるように、絆が途切れないように答えた。
「……あぁ、すっかり遅くなって今更なのですが、」
リアは急に思い出したように、一息置いて、告げた。
「命を助けていただいて、どうもありがとうございました、イズー」
白い手の乙女は、微笑んだ。