Ⅰ白のポーン 3. 魔剣使い 1
昨夜、情報屋メイヤーの店で知り合った騎士の青年エンドと、リアは途中まで一緒に旅をする約束をした。
小さな町に夜明けの鐘が鳴り渡った頃、リアは僧侶キルクに出立の挨拶をするため教会へ立ち寄り、そこでエンドと合流した。
夜が明けたばかりの教会では、キルクは古びた本を手に携えて、旅人たちを待っていた。その表情は、何か悪い知らせを受けたように、少し曇っていた。僧侶は朝の挨拶を交わした後に、先程鐘の音とともに王城から届いた新たなチェスの情報を、二人にそっと伝えた。
「お早うございます。ゲームに身を置くお二人が、旅の始めにこの町で出会われた縁を祝福いたします。今朝はお二人に、白の王城からの伝言をお預かりしております……。
では、まず暁鐘の知らせをお話します。八月二日、チェス第二日目。昨日、北へ向かわれていた赤のポーンさんがお二人、アラネスのそばまで来られているそうです。今日お二人と、お会いになるかも知れません……どうぞ、くれぐれもお気を付け下さい」
キルクはそう告げると、愁色を帯びた瞳でリアとエンドを見つめた。紅白のプレイヤーが出会えば、戦いが起こることが予想された。しかしリアは、キルクの憂いはそういう心配とはどうも違うように感じた。
「――それは魔剣使いだろうか?」
エンドは静かな声音に厳しさを潜めて、僧侶に一言尋ねた。キルクは眉をひそめて、それから重たく肯った。
「はい。お察しの通りです、ジェイン卿。私はそのことについて、白の王都でゲームの情報を扱っていらっしゃるビショップのラルゴ様から、詳しい情報をお伝えするよう承りました。それによると、赤のポーンのお一人は、由緒正しい弓使いの家の少女。そしてもうお一方は、古びた魔剣を扱う剣士の少年ということです。特に剣士は神出鬼没で、かの者が持つ光を放つ魔剣には十分注意して下さい、とのことです」
それを聞くとエンドは険しい顔をして、苦々しい声音でリアに呟いた。
「リア、緋色の髪の剣士には気を付けよ。奴は試合をしないでクロスを奪う」
憂慮に沈む面持ちで僧侶も深く頷いた。
試合をせずにクロスを奪うとは、つまりゲームのルールを破って一方的に戦いを仕掛け、強引にクロスを盗み取る、ということだった。
チェスでは、駒のクロスをやり取りするには“試合”という戦いをする。試合を始めるには、まず 双方揃って戦い方に一定のルールを取り決め、それを了承した証に“宣誓”を行わなくてはならない決まりがある。ゆえにクロスの駆け引きに、奇襲は認められなかった。
だが相手側のクロスが減れば、それだけゲームが有利に進む。そのためチェスの間、プレイヤーか否かを問わず、クロスを盗む者もいるという話は、リアも耳にしていた。件の者は、そういう輩ということだろう。
リアは、その者がこのポーンの騎士と深い関わりがあることを感じた。しかしエンドは、それ以上何も語らなかった。
キルクは話の幕をそっと閉じた。
「これで私のお伝えできることは終わりです。お二人の旅の道が幸運に見守られるようこの町で願っております」
祈りを込めてそう告げると僧侶は表情を和らげて、改まってリアに向き直った。
「ところで、リアさん。これをお返しします」
そう言ってキルクが渡した物は、腕に抱えていた一冊の古書だった。若い僧侶は礼を告げた。
「お城の書庫にあったこの古文書を、私と巡り合わせて下さったことを感謝いたします」
西大陸では、町の僧侶はよく魔法学の探究で夜を明かす。教会では奥の間に書庫が設えられてあり、昼間は町の人に開放され、夜は僧侶が古書の知を愉しむ。キルクも例外ではなく、燭台の小さな灯火を手元に古文書を紐解き、毎夜ひそやかに古代の魔法学を研究していた。書物の管理は教会組織と王立図書館が連携しており、僧侶はその大陸中を繋ぐ大きな蔵書の目録の中から、自由に書物を取り寄せることができた。西大陸では僧侶は学者に近かった。書物は小さな町の領主の城にも蓄えられる。しかしそれらは城主の個人的な所有であり、公的な教会の目録に書名が載ることはまれであり、希書であろうと塔の中で眠っていた。
「この本は数百年も昔に書かれた物なので、他の書の目録にタイトルが載るだけで、世間ではすでに散逸してしまったと思われていた物でした。しかし、私が魔法学の探究を進める上で、この本は重要な史料だと分かっていたので、もし今も存在するのなら、どうしても拝読したかった希書でした。それをリアさんがお城の書斎の塔から見つけ出し、この教会まで届けて渡して下さった時は、奇跡に思われました。
貴重な古書を快く貸し与えて下さったナハシュの領主様にも、本当に助かりましたと、どうか宜しくお伝え下さい」
リアは古書を受け取ると、鞄の中に丁寧にしまった。
「ええ。また何か探し物があったら、一言声を掛けて下さい、キルク。旅の途中で当たってみますので。それと、出発の前に、伝書鳩を一羽借りてもいいですか? サランという町のリュージェさんに、言伝をお願いしたいのですが」
「ええ。承知しました」
快く承るとキルクは教会の屋根裏部屋へ上り、一羽の小柄な鳩を手の甲に乗せて帰ってきた。小鳩は温和しく、その羽に淡い虹色の光をまとっていた。リアがその小さき生き物の細い足に、伝言の手紙を結び付けると、僧侶はさぁっと手を振り上げた。使いの鳩は手から放たれると七色に輝く翼を広げ、開け放たれた高窓へと向け、すうっと瞬時に羽ばたいた。その軌跡には、消えゆく虹のような光が残った。小鳩は窓の外の朝の空に見えなくなった。
「それでは、僕たちも発つことにします」
「世話になった」
遥か彼方の町へと飛び立った光の伝書鳩を見送ると、リアとエンドは僧侶に出発を告げた。キルクは二人を教会の外まで送り、花壇の横で立ち止まると、これから長い旅に向かう者たちに、高らかに餞別の言葉を贈った。
「かの者たちに武運あれ!」
旅人たちはキルクに礼を言うと、それぞれの連れを伴ってアラネスの教会を出立した。
「お気をつけて……」
僧侶は二人を見送りながら、祈りを込めて小さくささやいた