Ⅸ ミドルゲーム 3. 白い手の乙女 11
リアは不思議な人であった。初めてイズーがこの旅人を祖父に紹介されたのは、まだ幼い頃であった。その頃からこの旅人は、緑の三角帽子に麦藁色の髪の少年といういでたちの、今と変わらぬ姿であった。
イズーはリアが変わらぬ理由は、リアが異種族の血を引いているからだろう、と思った。エルフやドリヤードなどの、人より長く生きる者たちを祖に持つと、その血を継いで人より寿命が長く、老いるのも遅い。そのような者たちの中には、人と姿形が変わらぬ者もいる。城の石の精が祖先のルークなどである。金の輪を頭に飾るイズーの祖父や、イズー自身がそうであった。
リアはいつもこの城に滞在すると、城の主が祖先から代々受け継いできた膨大な書物が所蔵されている書斎の塔で過ごしていた。何かの研究をしている、という様子はなかった。ただ古書を扱い何か事務的な仕事をしている、という印象をイズーは受けた。リアは書斎の書物を全体的に熟知し、どこにどんな本があるかなどは、主のイズーより客のリアの方がよく知っているくらいであった。
イズーは昔、リアに尋ねたことがあった。書斎で何をされているのかと。その時リアは、この古い書物たちを書写している、と答えた。これを必要とする方たちがいるので、と。リアは旅先で親しくなった領主や僧侶に、本の貸し借りを仲立ちしているという話を、イズーは何度か耳にしていた。
リアが扱った後の古文書は、いつも痛みが繕われ、生き返ったようであった。
イズーが初めてリアと言葉を交わしたのも、古びた本がきっかけだった。
冬の日、雪の降る道をこの城に訪れた、緑の三角帽子の旅人を初めて見た時、幼きイズーは耳の長き者、獣の耳を持つ者たちとは違う、人の姿の客に目を惹かれた。旅人が自分と年齢の近い年若い少年だったからかも知れない。それから城の中で、異種族の者たちに混ざって滞在するその旅人を、不思議に思いながら、目で追いかけた。
話す機会ができたのは、薬草についての質問で、イズーが祖父の部屋を訪ねた時のことであった。柔らかい日差しが高窓に降る午後、イズーが腕に年老いた百科事典を抱え、茶色のドアをノックし静かに扉を開けると、そこに肘掛椅子に深く腰かけた祖父と話をしている背の高い旅人がいた。
イズーが歓談を邪魔しないよう部屋を出直そうとすると、祖父はちょうど良い機会だからと、一人きりの孫娘に不思議な客人を紹介した。名はリア・クレメンス。東西南北すべての大陸をどこでも自由に行き来する召喚士だよ、と。
イズーは客人に小さく一礼した。しかし言葉が出なかった。きびすを返してその場を去るにも、心は立ち止まって動かなかった。イズーは客人をただ見つめた。
リアはイズーが小さな胸に抱えていた、城主が代々読み込み使い古された大きな薬草の辞典を見て、にこりと笑って、
「少しの間その本をお貸ししていただけませんか?」
と尋ねた。イズーは無言で手渡した。
リアは重みのある厚い本を大事そうに受け取ると、本の背を片手でしっかりと持ち、無作為に中央あたりのページを開いた。そして、本ののどに魔力を込めるように、静かにじっと手をかざした。
しばらくすると、深い茶色に染まっていた本の地が、少しづつ少しづつ、生まれた時の色に近い色に変わっていった。それは職人が長い時を経てくたびれた古き物を、その手でいたわるように、修繕する姿に似ていた。
長い時間はかからなかった。リアは厚い本をそっと閉じて、
「これで消えかかっていた字も、少しは読みやすくなったと思います」
と告げると、その本を持ち主に返した。イズーが本を開けてみると、今まで痛みが激しく、文字がうっすらとぼやけていたページが、きれいに読み取れるようになっていた。
イズーは胸が温かくなった。少しだけ若返った辞典は、これから消えゆく所だった知識を、再び教えることができるようになったのだ。
イズーは本を抱きしめながら深々とおじぎをして、
「……どうもありがとうございます、……リアさん。私は城主の孫娘イズーと申します」
と、辞典の分まで心を込めてお礼を伝えた。自分の名は自然と口から出た。リアは生まれたての絆をとても大事にするように、イズーに敬意を込めて答えた。
「僕はリア・クレメンスです。宜しくお願いします、イズー」
そして周りを囲む本棚を見回した。
「ここの本たちは、持ち主たちから、本当に大事にされていますよね。書斎にいても、古い書物たちがとても幸せそうにしているのが分かります」
その時イズーは、優しい光を帯びたリアのライムグリーンの瞳を、綺麗だな、と思った。