後編
「……けっこう遠いんだな」
砂と灰にまみれた世界。
建物の面影を残す砂塵の塊の間を男と少女は歩く。
被った外套をしっかりと締め、マスクに、目と鼻を覆う眼鏡をつけた男とは対称的に、少女は薄手のワンピースの上にボロボロの布を外套にしただけの簡素な格好で歩いていた。
新世代の彼女は素肌を露出していても風化の影響を受けず、乾燥しにくかった。
旧世代であれば外で素肌を露出すればすぐに肌や唇がカサカサになり、水分を持っていかれるのだが、彼女はそんな過酷な環境下でも張りのある艶々な肌を保っていた。
新世代の少女が体を売ることが多いのはそれが可能な身体構造だからという面もあるのだ。
「んー、もうちょいかなー。
すぐ景色が変わっちゃうから旧世代には覚えにくいけど、私たちは場所と方向さえ覚えてれば何とかなるからさー」
新世代の子供たちは体内にコンパスを有していた。
砂塵吹き荒れる世界においても方向を見失わないように適応したのだと考えられている。
「……便利なものだな」
じつは男にも同じ能力が発現しつつあるのだが、男はそれを言わずにいた。
べつにわざわざ言う必要はなかったから。
必要に迫られれば使えばいい。
というか、べつにどっちでもいい。
男にとって自分とは、その程度の価値でしかなかった。
「……もし。
そこのお2人さん」
「「!」」
またしばらく歩いていると、外套を纏ってさえいない、ボロボロのポロシャツを着た1人の老人が男と少女に声をかけた。
「なーにー?
おじいちゃん。
私を買う?」
「おい」
少女はワンピースを軽くたくし上げながら老人に笑顔を向ける。
男はそれを制止しようとしたが、少女は構わず建物の壁に腰を下ろす老人に近付いた。
「いやいや、こんな老いぼれにそんな元気はないわい」
老人は笑いながら手を前に出して少女を止める。
「……」
男はじっと老人を観察した。
この世界で老人が生き残っていることは非常に珍しい。
体力的にもそうだし、灰になるのは年齢を重ねている者ほど早いことが多いからだ。
それに何より、力の弱い老人は他の旧世代からしたら格好の獲物だ。
灰になるのが先か。
他の旧世代に襲われるのが先か。
この世界での年老いた者の末路はそのどちらかと相場が決まっていた。
そんな状況でこの老人がまだ生き残っている理由。
男はそれを懸命に探した。
老人だけでなく、周りにも素早く目を走らせる。
それによってはこの老人を始末しなければならないからだ。
老人自体が強力な武器を持っているのか、あるいは老人をエサにして他の誰かが男たちを狙っているのか。
「……?」
だが、周りには人の気配はなく、この老人も武器を持っているようには見えなかった。
それに何より……。
「……大丈夫。
この人は大丈夫。
たぶんもう、そんなに長くないし」
少女の言葉をすぐに理解する。
男も思ったことだ。
この老人はまもなく灰になる。
目には生気がなく、髪の端が灰化している。
彼は残り少ない時間でなぜ自分たちを呼び止めたのか。
男の興味はそこに移っていた。
「お嬢ちゃんには分かってしまうんじゃな。
その通り。
ワシはもうすぐ灰になる。
だからその前に、おまえさんたちにお願いをしようと思ったのじゃ」
「お願い?」
老人の遠い目に、少女がこてんと首をかしげる。
少女は老人と目線を合わせるように腰を下ろした。
男はその後ろで立ったまま話を聞く。
いつでも懐に手を入れられるようにしているようだった。
「ああ。
これを、渡したくての」
そう言って老人は自分の胸元をごそごそと探る。
「!」
男が警戒して上着の内ポケットに手を入れようとするが、少女は下に下ろした手の、手のひらだけを男に向け、それを制した。
その必要はない、と男に伝えるためだった。
男はそれを見て内ポケットから手を抜くが、やはり警戒は解かずにいるようだった。
「……これじゃ」
「……ペンダント?」
老人が取り出したのは首からチェーンで下げていたロケットペンダントだった。
金のチェーンと同じく金のロケット部分がキラリと光る。
「これはワシが妻と2人分買ったものでな。
妻とお揃いなんじゃ」
老人は愛おしそうにロケットの輪郭をなぞった。
「……灰になると、身に付けていたものもなぜか一緒に灰になるじゃろ?
これはワシと妻の愛の結晶じゃ。
出来ることなら、このままこの世界に、こんな腐りきった世界にでも、残してやりたいんじゃよ」
老人は悲しそうに微笑んでいた。
「そーなんだ。
奥さんのことを愛してたんだね。
奥さんはどうしたの?」
「……灰になったよ。
何年か前にね」
「そっかー。
私のママと一緒だね」
「……そうかい。
お母さんをね」
「この人のパパもだよ」
「……そうか」
「みんな一緒だね!」
屈託なく笑う少女に、老人は穏やかな笑みを見せた。
「……ああ、そうじゃな。
一緒じゃ。
みんな、最期は一緒なんじゃ」
老人はそう言って足元の砂と灰が混じった地面を優しく撫でる。
「……ワシの妻はここで灰になっての。
せめて同じところに還りたいと思って、その時が来るまでここにいると決めたのじゃ」
老人の瞳には、かつての光景が浮かんでいるようだった。
「……だったら、それはやはりあんたが持っていた方がいい」
男がそこに口を出してきた。
老人は少し驚いたように顔を上げて男をじっと見つめた。
「……あんたも優しい男だの。
こんな世界では生きにくいじゃろ」
「……」
老人の言葉に男は何も返さなかった。
「だが、だからこそ、これはあんたらに持っていてほしい。
いつか、あんたらの助けになるだろう。
きっと、妻もそれを望んどる」
「……わかった」
老人は男にそれを差し出した。
男は少しだけ考えたが、結局それを受け取ることにした。
「……じゃあ、もう行きなさい。
用が済めばこんな老いぼれの相手をする必要はない」
「おじーちゃん」
「ん?」
少女は老人を抱きしめた。
優しく、ただ優しく、そっと。
それは孫が祖父に甘えるように。
母が子を包み込むように。
聖母が迷える子羊を受け止まるように。
ただただ優しく、少女は老人を抱きしめた。
「……ああ。
暖かい。
温かいの。
そうじゃった。
人は、こんなにも温かいものじゃった」
老人の頬に久方ぶりの水分が流れる。
それはすぐに渇れたが、たしかにそこに流れたのだった。
男と少女は再び歩き出した。
男は老人から譲り受けたペンダントを見る。
ロケットを開くと、幸せそうに笑う若い夫婦の写真が入っていた。
「……ん?」
男はその写真の裏に何かがあることに気付く。
ナイフを取り出してロケットの写真を入れている部分をさらにパチンと開くとそこには、
「……」
男はそれを再び元に戻し、ロケットを閉じた。
『いつか、あんたらの助けになるだろう』
男は老人の言葉を思い返しながら、ペンダントを銃が入っているのとは逆の内ポケットに入れた。
「あ!
こっちだよー!」
先行していた少女が手を振っていることに気付いた男はそれに追い付く。
そこで、2人は数人の若い少年たちとすれ違う。
新世代の子供たちだ。
「……」
彼らは互いに互いを見ることなくすれ違う。
新世代同士の争いは不毛。
それを承知している彼らは互いの干渉を極力避ける。
少女と一緒にいる男もまたそれと同じに扱われる。
少年たちは男たちが見えないかのように話をする。
「そろそろあの老いぼれも終わりだな」
「殺すの?」
「そうだな。
知識は貴重だが、もうこれ以上は搾れないだろう。
じきに灰になるやつだ。
もう一度、昔話を聞いてやったら殺そう。
殺したら一応、金目のものがないかだけ見ておけ。
灰になったら、身に付けているものも一緒に灰になっちまうからな」
「おっけー」
少年たちは歩いていく。
男たちが歩いてきた方向へ。
新世代は知識を求める。
安定して食糧を得られるほど強い新世代は、旧世代から知識を搾り取ろうとする。
乱暴な手で話させる者もいれば、昔語りに付き合って情報を聞き出す者もいる。
どうやら彼らは後者のようだ。
「……」
「……」
男と少女は歩く。
少女の家へと向かって。
少年たちとは反対方向に。
「……いいの?」
「……ああ。
この腐りきった世界ではよくあることだ」
「……そう。
まあそうね」
少女はそれだけを尋ねると、もうその話をすることはなかった。
新世代の少女と、旧世代でありながらこの世界に順応した男。
老人が彼らに何を見出だしたのか。
何を託したのか。
それが分かるのはまだ先のこと。
砂と灰が混じった大地を男と少女が歩く。
砂塵吹き荒れる終わった世界で彼らが向かうは少女の家。
彼らがそこで何を見るのか。
それは今はまだ分からない。