発信――君の声が聞こえる――
物心ついて初めての静寂。
「穂高紘一郎だ。はじめまして」
手を差し伸べてきたのは、背の高い大人の男。
目の前に立っているのに、信じられないくらい静かだった。
音のない人間。
「声が……聞こえない……」
喉の奥で絡まったみたいに、声が出にくい。しゃべりにくい。
自分の声が嫌いで、耳にしたくないと話さないでいるうちに、発声器官が劣化した。
伝えたいことも、満足に言えない。
(声は聞こえている。名前を言った……)
ああだめだ。これじゃ、きっと自分が何を言っているのかわからないだろう。
だってふつうのひとは、「心の声」なんか聞こえない。
相手が何を考えているかなんか、向かい合っただけじゃわからないんだ。
――あの子、怖い。気味が悪い。気持ち悪いのよ……。他人の頭の中が見えているみたい。考えたこと、言う前に全部わかっているの。怖い、近づいてほしくない。
――■■、落ち着いて。自分の子どもだよ。
――それが何よ!! 自分が産んだからといって他人よ!! 私の体から出て来たっていうだけで、それを特別な繋がりだなんて思わないで欲しいの!!
――■■、聖が聞いている。やめるんだ、君は聖の母親なんだぞ。
――だから嫌なんじゃない!! あんな得体のしれない……!! どうして。どうして他人の考えていることがわかるの!? 超能力者だとでもいうの!?
一説によると。
IQがぶっちぎって高いと、まるで他人の思考を読めているような言動をすることがあるという。
それかも、しれない。
少し知恵がついていたら、そんな風に言って、うまく擬態しただろう。
子どもの頃は無理だった。
聞こえることがおかしいとは知らなかったから、普通に「他人の頭の中の言葉と会話していた」。
「偶然にしては的中率が高すぎる」というのはそのうち周囲に気付かれた。
一番怯えたのは母親だった。
来ないで。寄らないで。顔を見せないで。どこかへ行って。
あなたなんか。あなたなんか。
どうして、私の子どもはこんな。
少しずつ壊れていく、なんて生易しいものではなかった。
目の前で、ビルの屋上から落ちて来たコンクリ片に潰されてひしゃげていくように。
“この子は他人の頭の中の声が聞こえている”
ほぼ確定したそのとき、母親の精神がぶっ壊れた。
たぶん、自分はその瞬間を目にしている。記憶はぼやけている。首を絞められて、意識が飛んでいたせいかもしれない。
その少しあと、あの男が現れた。
音のない人間。
それは人生で初めて会った、「心の声が聞こえない人間」だった。
(穂高紘一郎のそばにいると、世界中から雑音が消えていく。窓の外で雪の降る音すら聞こえるんだ。本当に静かで、何も考えずに眠ることができる)
絶音。
* * *
職業は建築士で写真家。
自分で図面をひいたという一軒家に住んでいた。
対面式のキッチン。カウンターにバーチェアが置いてある程度で、生活感は皆無。部屋の真ん中に真っ白の螺旋階段。ロフト部分には書棚とカメラの道具。
壁の上方に曇りガラスの窓がぐるりとめぐらせられていて、いつも不思議に柔らかな光が部屋に注いでいた。
家で過ごすときは、紘一郎がカメラをいじっている横で、何冊もあった大判の写真集をながめて過ごした。
あまりに静かで、そのまま寝てしまうことも多かった。気が付くと毛布がかけられている。天井でゆるやかに羽根が回転しており、空気の対流によって、ロフトの上はいつもほのかに温かかった。
その家はまるで、無音の結界が張られているようだった。
一歩外に出ると、世界はごちゃごちゃとしていて、無数のざわめきが、知りたくもない誰かの心が押し寄せてくる。
聞こえないふり。少し賢くなったから。ときには周りに合わせて笑うこともある。
自分のことを大っ嫌いな相手の前でさえ。心の中で叫ばれる罵声を浴びながらも。
(摩滅する。いずれだめになる。俺が俺じゃいられなくなる。正気を保っているのが奇跡だ)
好きも嫌いも、感情なんか最悪の暴力だ。
人間なんか全部全部、消えてしまえばいいのに。
「おかえり、聖。どうしたの、学校で何かあった?」
白一色の一戸建てには、穂高の表札。自分とは違う姓。このひとは他人。
だけど、母親に棄てられてからずっと一緒に暮らしてきた。
その結界の中に入ると、すべての雑音が消えて、「人間らしい会話」が始まる。
話さなければ、相手が何を考えているかわからない、そういう、たぶん当たり前の関係。
「何も」
(すごく嫌なことはあったけど。べつにそれを紘一郎と話したいわけじゃない。もっと違うことを)
「紘一郎、今日のご飯どうしよう」
「牡蠣が食べたい。冷蔵庫にあるから。こう……鍋とか雑炊とか」
「了解。フライとか酢の物じゃなくて、何か優しそうな感じね」
「そうそう」
一人暮らしだったくせに家事能力が壊滅的だった紘一郎に代わり、子どもの頃から食事を作り続けてきた。凝り性で、好きだったこともあり、高校生になるくらいには一通り、人並み以上にできるようになっていた。
静かであたたかで、白くて綺麗な家で、紘一郎の写真のことや仕事のことを話しているうちに、HPが回復していく。
その傍にいれば、自分は人間でいられるような気がしていた。
かけがえがなく、何よりも大切な相手。
紘一郎の言動から、彼が母親の昔の恋人であったらしい、というのは知れた。
少しだけ期待したが、自分の父親という線は無く、血の繋がりのない他人だということだった。
昔の恋人の子どもを引き取って育てる。
彼は自分にとって「心の声」が聞こえない唯一の人間なので、どうしてそんなことをしようと思ったのかは皆目わからない。
いつか新しい恋人ができたら、自分はどうなるのだろう。ときどき、考える。
彼と離れて暮らす未来。
それは思いがけないところから、そのときすでに始まっていた。
* * *
(幽霊……!?)
真冬の公園で、ブランコを漕いでいる人影。
夕陽はもうわずか。空気が青く透き通り、顔もほとんど識別できないくらい暗い。
なんとなく「誰」かわかったのは、それが見覚えのある人間に似ていたせいだ。
クラスの女子。
さほど特徴がなく、目立たない。これまでその存在を気にしたこともない。
よくいえば清楚。垢ぬけない印象ではあるが、癖の無い黒髪は清潔で、肌には透明感があった。
そういえば。
(クラスで何人か、この子のこと好きな男がいたはず……)
人の心の声が聞こえるのが、あまりにも普通過ぎて。
十代に入ってからは細かく人間関係を分析することはすでに放棄していたが、覚えはある。
(西條常緑だよな……)
今日も学校で見かけた、ような気がする。
それなのに、夕方には幽霊になってブランコを漕ぎながらたそがれている?
よくわからないまま、公園に足を踏み入れる。
足元には、十一月になって降った雪が溶けずに残っていた。昼間に子どもが踏みしめたのか、固まっている。このまま根雪になるだろう。
そのとき、視線を感じて顔を上げた。
ブランコの幽霊が、見ているようだった。
「『幽霊』……?」
距離があったのに、その呟きは妙にくっきりと聞こえた。
人の肉声。
足を止める。
何か、猛烈な違和感があった。
(耳が聞いた。いや違う。何かもっと……なんだいまの。違和感。何が。「幽霊」?)
そうだ、幽霊だと思ったのだ。
心の声が聞こえなかったから。
ブランコを漕いでいる、人間の姿を認識していたのに、無音だったから。
幽霊かと。
「『心の声が、聞こえない』?」
西條常緑というクラスメートの姿をしたその人間は、今一度呟いた。
まるで心の中の声をなぞるように。
歩み寄って、数メートルの距離に近づいたとき、灯りがついた。ブランコのそばで街灯が灯ったのだ。
見つめ合う。
「鷹司くんは、『人の心の声』が聞こえるの……?」
「西條さんも、聞こえているのか? 俺の頭の中を読んでるよな。『幽霊』って言った……」
真っ黒の瞳が、驚いたように見開かれている。
「心の声が、聞こえるの、わたし……。どうしていいかわからなくて。西條くんもなの?」
すがるように尋ねられるが、咄嗟に答えられない。
(だけど俺には、西條さんの声が聞こえない。肉声しか。これは紘一郎と同じ、『無音』の人間)
意味がわからない。
わからないのではなく、わかりたくないだけかもしれないが。
西條常緑は「他人の心の声が聞こえる」能力者。自分と同じ。その心の声が、自分には聞こえない。それは「紘一郎と同じ」。
つまり。
(「心の声が聞こえない人間」は、「他人の心の声が聞こえる」能力者側なのか?)
自分は病気のようなものだと決めつけてきたこの能力は、実際に何らかの「異能」であって、上下や強弱のようなものがある……?
西條常緑や、穂高紘一郎は、自分より上位の能力を持っているということなのだろうか。
足元が崩れる感覚。
“紘一郎も人の心の声が聞こえる人間。俺の心をずっと聞いていた?”
悟らせることなく。
考えてみれば、彼の周りはあまりにも人が少ない。意識して寄せ付けていないレベルだ。
そのことに「人の心の声が聞こえてしまう」自分はずっと助けられてきたけれど。
もしかしたら、彼自身が「聞こえる」がゆえに人を避けているのだとしたら。
「そっか。鷹司くんも『聞こえる』ひとなんだ……。良かった」
「何が?」
ブランコの鉄紐部分をぎゅっと掴んだまま、西條常緑は泣き笑いの表情で言った。
「わたし、ここ数日突然……。なんの前触れもなく『聞こえる』状態になって、どうしていいかわからなくて。誰に言っていいかもわからなくて。だけど、こんなに身近に『聞こえる』ひとがいたなんて」
本当に本当に、良かった。
絞り出すような呟き。
「ああ……そうか」
初めて紘一郎に出会ったときの自分もこんな表情をしていたのかもしれない。
寄りかかっていいかどうかわからない、けれど暗闇の中に光を見出したという儚い笑み。
直前までただのクラスメイトで一度も意識したことがなかった相手が、不意に。
この先長い付き合いになると予感した瞬間だった。
★お読みいただきありがとうございました。
★「ステラマリス」本編の方でも聖さんはときどき人の心の声が聞こえているような不思議な言動がありますが、この作品自体はあくまでif設定です。聖さんが紘一郎に引き取られた事情など、本編に沿う形で深く掘り下げることができなさそうなので、出してきました。
★本編では「もしかしたら以前異能があったかもしれないけど、大人になってからはほぼ能力が消えて少し勘の鋭いくらいのふつーのひと」というイメージで書いています。ガチ超能力者ではありません。
【補足】
この作品は作者が高校生のころ(20年くらい前)に書いた作品がもとになっています。
もともとが原稿用紙100枚くらいだったのを今回4000字にしています。
聖と常緑の出会いから、お互いをかけがえのない相手と認識するまでの物語であるとともに(オリジナルは常緑視点でした)、
「聞こえる側の人間」であることを明かすことなく、十年くらい聖と一緒に暮らしていた紘一郎がマジ怖ぇ、という聖の葛藤の物語でもありました。
ステラマリス本編でも、紘一郎にも「人の心の声が聞こえているのでは?」という描写はあるのですが(主に【Nirgends】あたり)、今後その辺を掘り下げて書くことはないと思うのでこういう形で公開しています。
タイトルは高校生の頃に書いていたときからずっと「発信」なんです。「受信」や「絶音」ではないのです。
北海道にはかつて「発信」という変わった服を扱っているブランドがあってですね……! わたしは「発信」が大好きだったんですよ……!!
(※作者は北海道の出身です)
以上