002:未熟
前話直後からのバトルパートです。残酷描写があります。そういったものが苦手な方は御注意下さい。想定している通りの話造りが出来ればこんな感じの戦闘描写がメインで進むファンタジーになります。なるといいなあ。
マグライトの光を警戒してか、熊はすぐに襲いかかってくるようなことはしなかった。荒い息とともに獣臭を放ちながら、こちらを観察し警戒しているのが痛いほど解る。しかし、それもいつまでも続くものではない。
こちらから動く。それしかないか。
「言葉、解る? 通じてる?」
腕の中の少女に小声で問いかける。無論目は熊にやったままだ。というか余りのプレッシャーに視線を外せない。
「え? あ、はい。大丈夫です」
おお、通じてるのか。非常に流暢な日本語。とすると、ここはやはり日本なのだろうか、と考え現実逃避に走り始める思考を強制停止。焦りすぎていて正直自分で何をしでかすか解らない。表情筋が硬直して攣ってしまいそうだ。
「抱えてあげるから、私に掴まって。取り敢えず逃げてみようと思う」
彼女が頷き、腰に回っていた細腕がおずおずと首にかけ直されるのを確認すると、失礼を承知で左腕をお尻に回して一気に抱え上げる。きゃ、と可愛らしい悲鳴が漏れた。その声に反応した奴と同時に動く。手首の動きでマグライト先端を跳ね上げ、白光が奴の顔を照らし出した。安い目潰し。振り上げられた剛腕が、反射的に光を遮る為に動きを変える。その隙を逃さず反転、思いきり地面を蹴った。
背面には巨大なリュックサックに、利き手である左腕及び前面には人一人、右腕はマグライトでふさがっている。とにかく一旦距離をとらないとどうにもならないが、そう長く逃げられるとも思えないという二律背反。どうしたものか。そして、すぐに追いすがってくる気配。彼ないし彼女にとっても狩りの成否は死活問題なのであろうがしかしはいそうですかと譲るわけにもいかない。
夜の森を駆けるコツはとにかく木の根などの足元の障害物に引っ掛かって転ばないことと闇に沈んだ木に正面衝突しないこと。幸いマグライトの光量は十二分なので視線は前に固定、後は忌わしい身長百七十七センチがもたらす足の長さを信じて木々の合間を縫って突っ走る。跳ねるように走り、すぐに手頃な大きさの木の後ろに隠れ様子を窺った。木の陰に飛び込む直前にマグライトの光を落したことで見失ってくれるかともいう楽観もあったが、そう上手くは行かないようだ。逃げるのをやめた獲物に対して余裕が生まれたのか、じりじりとにじり寄ってくる。
やるしかない。
少女とリュックを手早く下ろし、少女に押しつけるようにマグライトを手渡す。
「これで照らしてて。私じゃなくてあいつの方ね」
「あの、こんな魔道具の使い方、私」
焦りもあらわなその言葉の中に若干の違和感を覚えたが、それに拘泥している余裕はなかった。軽く腕と肩を慣らしていると、今の今から自分のやろうとしていることに嫌でも思考が向いて、それだけで身体の芯から震えが走る。何をやらかそうとしているのかと、頭の中に唯一残った冷静な部分が笑い出しそうになっている。
「その取っ手の黒いところ押せばつくから。合図したらつけて、あいつを照らして。それだけでいいから」
碧眼の奥に聡明さを窺わせる少女は、不安げながらも一度の説明でこくりと頷いて受け取ってくれた。その金髪をなでてやる。はっとして見上げたところに、上手く動かない表情筋で作った微笑みモドキをつけてやる大盤振る舞いだ。我ながら余裕があるのかないのか。
「……それから、私が一発でもあいつにやられたらそれ投げて逃げてね」
言い忘れそうになったことを付け加える。一発で即死するようなへまはしないつもりだが、逆に一撃でも受けてしまうとそのまま体格差で押し切られてジリ貧になる可能性が高いと見積もっていた。だから、その時は少しでも時間稼ぎをするつもりだった。自己犠牲の精神を語るつもりはない。ただこういう時、人間は自分の事を考えられないように出来ているのだと思う。
そうでなくたって、例え偶然であろうと自分に助けを求めたこの美しくも可愛らしい少女には、何が何でも生き延びて欲しかった。
不意に、まるで何かを思い出したように少女の雰囲気が変わった。こくんと唾を飲み下し、一つ息をついてからその目で見上げてくる。恐怖に濡れていた筈の碧眼に力が感じられた。相手の目を真正面から見据えることの出来る心の根っこの強さ。
「旅の魔法士様。まず、行きずりの貴女に助けを求めてしまったわたくしの弱さをお許し下さい。重ねて勝手を申し上げますが、魔法士様がわたくしの安易な行動のせいでその命を賭さねばならなくなったのであれば、わたくしが逃げる訳にはいかないのです。我が王家の名誉にかけて。どうか、お許し下さい」
こういう状況であるからか、それともただこういう言葉は言いなれないのか、たどたどしく彼女は語った。
というか、本当にお姫様だったんだ。そうであるなら尚更、出来れば素直に逃げて欲しいのだけれど。
しかしもうこれ以上言葉を交わす猶予はなく、黙って木の陰から身を出すしかなかった。横顔に彼女の視線を感じる。むずがゆいというか何というか。余りそういうのは柄じゃないんだけどな。
化け物じみた熊と、再び対峙する。大きい。目の前にあるだけでその重さが解る。
予想以上に息が上がっている。元々、キャンプの帰りで体力を消耗している上に、大荷物を抱えての全力疾走。ただでさえ不意のトラブルが連続していた所に、この正面からのしかかってくる威圧感。
平常心、平常心。
自分にそう言い聞かせ、一つ息を吐く。足は肩幅に開き、拳は握らずだらりと下ろして自然体。
「陽炎式柔術、師範代、新橋天音。推して参る」
言葉が通じた訳ではあるまいが、その獣は大地を揺らす咆哮で応えた。そして、衝撃に押された身体がビリビリと震えるほどのそれは非常識ではあるが正しく攻撃に違いなかった。直撃を受けた身体が否応なしに硬直する。視界の中で獣が動く。爪が喉元めがけて振り下ろされる。
体中の汗腺という汗腺から脂汗がどっと噴き出す。背筋に腰が抜けるような怖気が走る。機先を制された。応じて動こうとして足がガタガタ震えていることにようやく気付く。焦りが加速するが足はまるで地面に根をはったように動かない。このまま動けなかったら死ぬのだが。考えるまでもない、綺麗にばっさり三枚だ。
そしてコイツは、途中からしゃしゃり出て名乗りまで上げたのに全然相手にならなかった雑魚を置き捨て、木の陰で縮こまっているのであろう本来の獲物へと――。
「今!」
全然今でも何でもなかった。ただ金縛りを解くのに声を張り上げたかったのと、予想外に追いつめられて混乱し口の中に用意していた言葉がそれしかなかったのとで、そう叫んでいただけだ。
なのに、お姫様は予想以上に上手くやってくれた。間髪入れず走った光条は奴の全身を照らしだし、確かに怯ませた。同時に、闇に沈んだ得体の知れないシルエットの正体を光の下に暴きだした。
多分こいつは熊じゃない。だけどそれと等しく、化け物じゃない。所詮はただのナマモノ。冷静に頭が回り始める。躊躇なく駆け、間合いを一気に侵略する。その凶眼が眼前に迫った。構うものか。懐にまで飛び込む。最後の踏み込みは左。大きく踏み込み左の半身になる。反動荷重の右腕は鞭のようにしなやかに後方に。左腕を身体に巻くように、そこから肘を跳ね上げ、容赦なく打ち込む。
全体重を乗せた肘が獣の脇下に突き刺さった。肋骨を折り砕き、胸郭を突き破る感触。
獣が再び咆哮を上げかけたが、湧き出す血に遮られた。直接的に肺を損傷したことによる喀血だ。浴びないように飛び退ると同時に巨体が倒れ伏す。その余りの大質量に地響きが起き、獣臭を含む空気が押し出され旋風となった。
陽炎式柔術では急所打ちのことを砕きと呼ぶ。投げ技よりも陽炎式柔術の多くを占めるこの砕きであるが、決して人を相手にして打たないように、まかり間違っても全力では打つなと教えられていた。当時はその事をよく疑問にも思ったのだが、今ならよく納得できる。繋げ技である仮砕きはともかくとして、このような本砕きは純然たる殺人技だ。つい先程とは全く別の意味の冷や汗が額をつたる。なんてものを孫娘に教えてくれたのだ、あのじさまは。
折角九死に一生を拾ったのに、これでは素直に感謝できないではないか全く。
「有難う。助かったよ」
どうにも微妙な心持を首を振って追い払い、唖然としてこちらを見ているお姫様に声をかける。少し刺激が強すぎただろうか。魔法士様とかなんとか言っていたが、本当の魔法士様だったらもっとスマートに事を済ませていたのかもしれない。魔法。少し憧れるが。
マグライトの逆光で解りにくいが、何故かお姫様は顔を赤らめて顔をそむけたようだった。
「あ、いえ、そんなお礼を言われるようなことは」
まあ確かに、傍で見ていただけなら解らないものであるか、事の実情なんて。実は自分の命が結構危ないところまで脅かされていましたなんて、態々教えてあげるのも悪趣味だから黙っているけれど。
「立てる? 怪我してない?」
「はい、有難うございました、戦士様」
あ、称号が変わってる。
それはともかくも、存外にしっかりとした声音でお姫様は答えてくれた。なんでお供の人がいないのが気になるけど、なんにしろ一人であんなのに追われて怖かったろうに。先刻もちょっと思ったが芯のしっかりとした子なのだろう。
それでもやはり気になるのか、倒れ伏した謎の獣の方にちらちらと視線が動いていた。それにしても一体全体なんなのだろうかこいつは。熊ではない、とは思う。幾ら何でも巨大過ぎるし、先刻気付いた限りでは毛皮が金属のような鈍い光沢を放っていた。
肘鉄を打った左腕をみると数本の毛が袖に刺さっている。試しに一本抜いてみると、やはり。こいつは真っ当な毛の代わりに金属針で外皮が被われているのだ。とっさの判断で毛並みに対し順方向に肘を打ち込んだから少々袖に突き立つ程度で済んだものの、万一適当に打撃を打っていたらと思うとぞっとする。
打った感触や見た目の骨格構造からやはり哺乳類、それも熊の近傍のナニモノかであることは間違いないと思うが、このような金属を体内で精製できる生き物なんて存在するのだろうか。しかもこの針、ちょっと軽いがもう少し重ければそのまま投げて武器として使えるように思う。他の用途には明るくないからよく解らないが、つまりはかなりの精度で作られているのは歴然だ。これだけ見せられれば、まず間違いなく人工物だと思うだろう。
やはりここは地球ではない、似たような歴史をたどった星なのだろうか。そして、これは生命の生存競争の結果とでもいえるものであろうか。いや、それでもお姫様には日本語は通じたし。だけど天の川は二本あるし。でも重力や気候、空気組成は地球と変わらないみたいだし。だからといって――。
「っ!? 戦士様!」
思考に没入していたところから引っ張り出してくれたのは切羽詰まったお姫様の声だった。そして、同時に信じられない光景が目の前にあった。あの獣がまだ動いている。のみならず、立ち上がってこちらを見ていた。
「――なっ!?」
胸郭ごと一部とはいえ肺組織を潰したんだぞ。即死はしなくともまず致命傷、そもそも呼吸がまともに行えず立ち上がるなんて不可能な筈――!
あれこれ考える暇はない。もう一度懐目掛けて肩から身体を突っ込む。こいつはただ立ち上がっただけじゃない。明らかにまだやる気だ。ほら来た、左手から、恐るべき速度の爪の振り下ろし――!
受けは間に合っていた。立てた肘を突っ込んでくる腕の内側へと回し込み、そこにある急所に当てて受ける。相手の攻撃の脆弱な部位を見切り、逆に己は強固な部位で受ける、砕き受けという攻防一体の技。しかし、攻防一体なら相手も生来持ち合わせているのだ。肘に無数の鉄針が突き立ち、焼けるような痛みと痺れが指先から肩にまで走った。
「ぐががっ!」
痛みに意識が持っていかれそうになる。しかし、背後から息をのむ悲鳴が聞こえて、寸前で踏みとどまった。だからそういうのは柄じゃないんだけど。
肘が死ぬほど痛いけど、こっちだって砕き受けで確実に手首は破壊した。胸部にも一発大きいのを入れてる。こうなればもう我慢勝負。やるしかない。
限界まで意識をかき集めて相手より早く立ち直る。そして間髪入れずに顎先への掌底打。打ち上げ系の攻撃のコツは踏み込みをしっかりと強く行うこと。手の平にぶすぶすと穴が開いて先程以上の痛みが身体を突き抜けるが腹をくくった以上それももう無視。痛みの質は違えど、あの鬼のようなじさまの砕きに比べたら屁でもない。痛いけど。
もろにくらった針熊は前傾姿勢から背骨を反らす程まで仰け反った。その隙を逃す教えは陽炎式柔術にない。身体を回して側面を取りにいく。右手、親指のみを握り四指を伸ばす貫手。遠心力に乗せて、狙うは一番初めに開けた大穴、脇下の急所――!
陽炎式柔術、砕きの一番、鎧貫。
ずどんという砲撃のような音と共に、二の腕の半ばまで肉に埋まった。折れた肋骨が少々腕の肉を裂いたが、とにかくキツく熱く血に濡れた感触にそれどころではなかった。生きようと蠢く筋肉と臓腑が打ち込まれた異物を締め上げてくる。
「何をやっているのだ、私は……」
何も殺す必要はなかっただろう。多少の痛みを我慢して投げ技でひっくり返してやればこいつも我に返って逃げ出していたかもしれないのに。頭に上っていた血が、音を立てて抜けていく。思考の中の冷静で身勝手な部分が暴れだす。
その一方で、そいつが残り少ない生命の火を燃やし、まだ動こうとしている事は何となく解っていた。そして感覚的に悟る。殺されなきゃ死ねないのだ、こいつは。
体内をまさぐる。その感触については考えないようにしながら、目指す場所の当たりはついているのでその辺りを無心に指先で探る。――あった。いっぱいに詰められたミミズが絶えずのたくっているような巨大な肉袋。心臓。中指の先に捉えたそれを、腕を更に伸ばして握る。医療現場において、蘇生法を行う時に似たようなことをするらしいとどこかで聞きかじったことを思い出す。文字通り、掌の中で暴れる命の鼓動。今からその正逆のことをやる訳だ。
最初、そのまま握りつぶそうと思った。しかし、この巨大な生物の命の源は到底手一枚に収まる大きさではない。だから。
ぶちぶちぶち。
引き抜いた。躊躇なく。少しでも遅れれば爪が背中から腹に抜けていたのが解っていたから。まとわりつく大小の血管を引きちぎって、それを奪い去るように飛びのく。着地の際に何故か膝から力が抜けて、無様に転がってしまった。
「戦士様!?」
視界の端に針熊が映る。今度こそ、その巨体は力なく倒れようとしていた。お姫様の呼ぶ声が聞こえるが答える気力はなさそうだ。遠のいていく意識の中に、己がその命を奪った獲物の最期を焼きつける。
「未熟」
思わず、口の端から一つ言葉が零れ落ちた。いつもじさまから言われ、常に心にとめていた筈の言葉なのに、これほど強く意識したことはない。なんという未熟か。
生き残ったはずなのに、苦味ばかりが残る。せめて起き上がらなければならないという意思は意識の混濁にのまれ、そのまま闇に落ちる。
それでもこれでしばらくは休めると思うと、幾許かは気楽であった。
そんなこんなで異世界に召喚された初手から化け物熊の生き胆を抜く女主人公です。最初の悲鳴が「ぐががっ!」です。正直どうなんでしょう。
誤字脱字等、もし気が向いたら御報告下さいな。