001:悪癖
何かの拍子に思考に没入すると周囲の一切合切が目に入らなくなってしまう悪癖は、いつかは直さなければ痛い目を見る、そう常々思ってはいたのだけれど。
視界を埋めるは見慣れない針葉樹の群。それも、日本ではなかなかお目にかかれない、人の手付かずの自然森。静かではあるが時折風に鳴く葉の音や、何やら得体の知れない動物の鳴き声が聞こえてくるので全くの静寂という訳でもない。
はて、ここはどこだろう。
高校の気の合う友人とともにキャンプ場にレンタルのテントを張って二泊三日。そんなインスタントな非日常からの帰り道。住宅地住まいの友人達とは既に駅で別れて(女の子の一人歩きには場所も時間帯も良ろしくないので送って行こうかと、男子連中の一人に言われたが常の事だと言ってすげなく断った。そうしたら案の定その彼は周りに冷やかされてしまったので悪い事をしたかも知れない)、明かりの少ない田舎道をとぼとぼと一人歩いていたところだった。そうであった筈だ。
元はその辺り一帯の大地主であったという生家の周囲は、明治の開墾以来変わらない農村であるので、そうである以上、このような鬱蒼とした森であったのは何百年と昔の事の筈。それがどうして。
道に迷ったか?
いや、有り得ない。例え夜道であろうと駅から家への道を間違えたりはしない。加えてあの辺りには風除けの雑木林はあってもこのような針葉樹森はなかった筈。見渡せば見渡す程に森は深く日本であるかすら疑わしい。
そして足元。星明かりだけではよく解らないが、それでもこれは林道というよりは獣道であろうと推測出来る。振り返ってみても同じ。ふと思い出してリュックサックからマグライトを取り出し照らしてみると余計によくわかった。まかり間違ってもこれは迷い込むような道ではない。
狐狸の類に化かされたのかとも思えるが、どうだろう。つい最近までこの辺りにはそういった生き物がわんさか住んでいたものだと、ばさまがよく言ってはいたのだが。
溜め息が出た。正直訳が解らないが、前向きに考えるとするならキャンプの装備のある時で良かったと思うべきなのだろうか。重たく動きづらいので疎ましく思っていたリュックサックがやたらと頼もしく思える。
と。
見上げた視界に星空。生い茂る木々に遮られ視界いっぱいにとはいかないが、人工の明かりのない場所から見上げる美しい星明かりは、田舎暮らしの特権だと思う。天球に横たわる乳白色の天の川がくっきりと見えるのを、正面から背後まで無意識に追って――。
「……ぁえ?」
この事態にあってなおここまで妙に冷静さを保っていられたのだが、ここにきてついに思わず声が漏れてしまった。目をこすってもう一度確認。間違いない。天の川が天頂辺りで交差点になっている。ほぼ垂直に交わるもう一本の帯はやはり乳白色で空の端から端まで伸びていて、つまりは。
「天の川が二本……?」
いや、違う。天の川が二本ある筈がない。少なくとも、二本あったらそれは天の川銀河――すなわち、銀河系では有り得ない。
天の川は、ミルキーウェイとも呼ばれ、太陽系の所属する天の川銀河の星々の集まりが、夜空を流れる乳白色の川のように見えることからその名で呼ばれている。
その天の川銀河は分類すると棒渦巻銀河に属する銀河で大まかには凸レンズのような非常に素直な形をしている。決してこのようにひねくれた形で見える筈がない。
天の川は二本ない。中学校の頃の理科で習った天文の知識が大元なので余り当てにはならないのだが、天球図に天の川がへそ曲がりを起こして交差してしまうような場所は存在しなかったのは確かだ。
とすると、ここは日本でも地球でもなく、それどころか銀河系ですらないのか。
……見かけによらずメルヘンなんだね、と親しくなった人物にはしばしばそう言われる。身長百七十七センチの貧乳大女がメルヘンであってはいけないという法がある訳でもあるまいに。貧乳には夢とロマンが詰まっているんだよ、と訳知り顔で言い放ってくれた腐れ縁の阿呆は遠慮なくどついてやったが。
閑話休題。
いやしかし、流石に地球でないなどと言いだすのはメルヘンに過ぎるだろうか。こうして問題なく呼吸ができ、かつ生態系もそれらしい感じであるから生命居住可能領域にあるのは間違いないのだが。とすると、仮にここが地球でなかった場合月はあるのだろうか。月と言うのは実は衛星として非常に稀有な存在である。太陽系に存在する衛星の中では五番目に大きく、更に言えば属する惑星に対する体積比だと最も大きい。それ故に潮の満ち引きなどにも大きな影響を与えている。それによる大洋の攪拌がない場合、はたして生態系が地球のように育まれるのだろうか。
さて、狐狸の類に化かされたのと、どちらがメルヘンだろうかね。
自嘲し、考えを振り払った。今はそんなことより、ここから出る方が先決だ。どうにも危機感が足りない。いや、足りないのは実感だろうか。歩きながら考え事をしていたら、ふと気付けば森の中。夢を見ているような気さえする。
そこでようやく気付いた。草木を踏みわけ走る音が複数。やんごとなき理由で夜の森をただ急いでいるというには、あまりに切羽詰まって乱れた歩調。そして時折聞こえる獣の吠声。人だ。何かに追われている。それももうかなり近い。そして明らかに近づいている。何故だろうと考えて、マグライトを点けっ放しにしていることに今更気付いた。気付いたところで、もう目の前までそれは来てしまっていた。
何を思う前に、阿呆のようにそちらを照らしてしまう。
飛び込んできたのは、異国風のお姫様。恐らく絹でできたドレスは逃避行の最中にそうなったのであろう、裾をはじめあらゆる箇所が切れ切れになって痛々しい。澄んだ泉のような大きな碧眼で、ふわふわとウェーブのかかる金糸のロングヘアーは肩にかかるほど。やや童顔のきらいはあるものの、絶妙なバランス故に成り立つ顔の造りの美しさ。草木に切られたのだろう傷が柔肌に幾本か刻まれて痛々しく、転んだのだろう、土くれが髪にまで付着してしまっている。しかし、彼女を構成する芯の部分の美しさを理解するには何程の妨げにもならなかった。
正面から抱きとめる。軽い。回避することなど出来た筈もない。真正のお姫様と百七十七の貧乳大女では存在のレベルが違うのである。たとえ回避しようとしたとしても、彼女を構成するお姫様の概念がそれをさせなかったに違いない。
(うわ、これは本物のお姫様だ)
そして、ふっと暗転する。星の光が遮られたのだ。お姫様の背後から覆いかぶさるようにして現れ、マグライトの明かりに照らし出されたこれは、熊だろうか。ツキノワグマかグリズリーか知らないが、おそらくその近傍のナニモノか。二足で立つその姿は脅威としか言いようがない。黒褐色の剛毛に覆われた体躯はこれまでにお目にかかったことのない巨体で、悪ければ三メートルを超過しているのではないか。
「たす、……たすけ」
岩でも砕きたいのかと言いたくなる分厚く凶悪なシルエットの爪と、主食が肉だと嫌でも解る牙。双眸は爛と輝き餌を捉えて金縛りにする。
熊を素手で倒したことのあるというじさまを、改めて心の底から尊敬しよう。させて下さい。
何かの拍子に思考に没入すると周囲の一切合切が目に入らなくなってしまう悪癖は、いつかは直さなければ痛い目を見る、そう常々思ってはいたのだけれど。
まさか本当に痛い目を見ることになるとは。