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緑の鳥の、その名前

作者: quiet



 図書館ももう明日からしばらくは休みになるというので、私は昨日の続きのような服を着て外出することにした。以前に人からもらった布のバッグに、ここ数日の間に読み終えた本を詰め込んで、水道水を一口含んで家を出る。コートを羽織っているというのに履物はゴミ捨て用のサンダル。図書館まで歩いて五分、というのがこの木造アパートに住むことにした決め手だったが、欲しいものが容易に手に入るということは、ときに人から正しい歩き方というものを奪ってしまう。


 木造の一階建てはとても風通しがいいので、外に出た瞬間に首を竦めるようなことはほとんどない。しかし冬の昼の曇り空は私が想像していたよりもずっと薄暗く、ささくれだったような空気があたりに立ち込めていた。


 備え付けが悪いのかくるくると回ってしまう錠に鍵をかけ、アパートの前、神社の裏の一方通行の道路を歩く。背の高い木々に囲まれた細道にはいつも湿った空気が満ちていて、爪の間まで濡れるような気がする。ごみ捨て場に未回収の瓶が首を揃えて佇むのを横切り、カーブミラーのところで折れて、大通りに出る。凍結防止のためか、大きな鏡の下に、真黒なゴミ袋のようなものが被せられていた。


 元より若者をあまり見ない道だと思っていたが、今日はそれに輪をかけてご老人ばかりが目についた。きっと他の人々は帰省中で、街を留守にしているのだろう。なにせ年の瀬、大晦日。二車線の道路を渡っていく車もまばらだ。


 コンビニの手前で信号を待つ。周囲の静まりに比して、インスタントな店の灯りは不思議な寂しさを湛えていて、雨の気配の薄い空を見上げていると、ふと締め付けられるような気持ちが湧いた。


 これだから年の瀬というのは良くない、と思う。皆が皆、今年という年を振り返り、来年という明日への思いを語る。行動というのは一人でするならばただの乱れだが、皆でするならそれは流れである。どれほど普段人から離れたところに日々を送っていると思っていても、触れられれば動く程度の心は常に残している。


 先行きのない生活を送っていると嘆くうちはまだいい。問題は、暗闇で壁を探すような未来への思考に疲れ、過去を思い返しているときである。

 古い記憶の褪せる速度が、年々増している。高校までのことが思い出せなくなっているのはもう諦めがつくが、大学時代の、今の自分とほとんど人格的に同一視できるような数年前のことでさえ朧になりつつあるというのは、時の流れと、それによって朽ちていく己の肉体のことを思い起こさせる。


 そうしているうちに首をもたげてくるのは、どうせ過去も未来も今とは切り離された時間であるのだから、という惰性へと傾く気持ちである。そう思っていることに気付くと、自分が泥でできた人形にでもなったような心地がして、赤信号に止められていたことも、青信号に進められていることも、光の薄い朝に見る冷たい夢のように感じられてくる。


 正面から来る自転車を躱して、蔦の這う民家を過ぎて、灯りの消えた郵便局を曲がる。小さな畑、誰もいない公園。いつのものだったか思い出せない選挙ポスター。図書館はこちら、と矢印の看板を見て、もしも曲がらずにこのまま進んでいったら、誰が住んでいて、誰に会えるのだろうと考えこんで、足を止める。


 そのとき、目の前を緑色の鳥の群れが横切った。


 一瞬だったから、思わず目で追った。鮮やかな緑。黄緑。

 驚きは、そんな生き物がいるのか、というものではなく、思いがけないものをここで見た、というものだった。


 大学生だった頃にも、その鳥を見たことがあった。就職やら何やらで自分の人生を見失い続けているとき、夜通し勉強をして、始発に乗って大学のキャンパスに来て、零度あるかないかの講堂前の広場で本を読んでいたとき、あの緑の鳥の群れが、空を横切って講堂の向こうに消えていくのを見た。


 幸せの青い鳥、という物語は、その話の趣旨は置いておくとして、珍しい色の鳥は吉兆であるという意識を私に擦りこんでいる。ただ珍しい動物を見た。それだけのことで妙に嬉しいような、救われたような気持ちになる。


 ひょっとすると今年はいい年で、来年もいい年になるかもしれない。

 矢印のとおりに曲がって、私は図書館へと向かった。



*



「相変わらずよく借りますねえ」


 と灰賀青年は言う。いつもすまないねえ、と言うとあはは、と控えめな笑いで返してくれた。


 灰賀青年はこの図書館のアルバイトスタッフであると同時に、近所に住む大学生である。以前に図書館の前に鳩の死骸が横たわっているのに難儀していたのを見かけて手伝って以来、気安く言葉を交わしている。


「今日は流石に人もいないか」

「そうですね。というか、たぶんみんな今日まで図書館やってるって知らないんですよね」

「ああ、私もホームページを見てから来たんだ。郵便局だってもう閉まってるしね」

「今日までやってるのって、うち以外は警察と消防と病院くらいじゃないですか?」

「さっきコンビニは開いてたよ」

「ああ、まあ。民間はどこもそうですよね」


 大変だあ、と灰賀青年は今更のようにぼやく。彼も大学三年の冬である。色々思うところがあるのだろう。私もその頃は色々と思うところがあった。思うところがありすぎて、こんな風に図書館通いの身になってしまった。


 予約の本が来てますけど、と灰賀青年が言うのに、もう少し借りるものを持ってくるよと返すと、それこそ呆れた顔をされる。週に一回はここに来るし、一度に十冊は借りる。内心迷惑がられていないかと不安になることもあったが、最近灰賀青年が相手してくれるようになってからは、何となく心が楽になった。


 さっき返却した本のうち、面白かった作家の本を二冊手に取る。前から読みたかった有名作品が棚に戻ってきたのを見つけたので、それも手に取る。海外小説も、と背表紙を見てタイトルの綺麗なものを一冊手に取り、小説ばかりでは栄養が偏るだろうと、自然科学の棚と人文科学の棚を巡って、各一冊ずつ興味のあるジャンルのものを加える。その間、誰とすれ違うこともなかった。受験生らしい少年が一人、机に突っ伏して眠っているだけ。


 確か予約していた本は五冊だったから、もう一冊くらい借りようかと考えて、思い出したのはつい先ほどの嬉しい出来事。『青い鳥』を海外文庫の棚から抜き取った。


 カウンターに戻ると灰賀青年は待ってました、と眼鏡の奥の瞳で語った。テーブルにはすでに私の予約していた五冊の本が乗っている。思っていたよりも分厚いハードカバーが混ざっていたが、読み切ってしまうことはあっても読み切れないということはほぼないような読書生活を送っているので、特に借りる冊数を変える気は起きなかった。


「へえ、『青い鳥』」


 表紙を見た灰賀青年はそれに目を止めた。


「幸せになりたいんですか?」

「そりゃそうだろう」


 ですね、とだけ言って、灰賀青年はコードを読み取っていく。それをじっと見つめていると、とうとう私は抑えきれなくなった。


「ついさっき、緑色の鳥を見たんだよ」

「緑の? あー」

「知ってるのかい」

「知ってますよ。このへんに住み着いちゃってるんですよね、あのインコ」

「インコ?」


 その答えは予想していなかった。緑の鳥を見たんだ、君は見たことがあるかい、珍しいだろう、いいことがありそうな気がしているんだ。予定していた言葉を全部飲み込まなくてはいけなくなるような、そんな単語が灰賀青年の口から、苦々しい調子で放たれた。


「そうなんです。前にテレビでもやってましたよ。ペットのインコを飼い主が放しちゃって、野生化してるんですって。あいつら結構鳴き声がでかいとか果物を食べるとかで、害獣ですよ。下手するとカラスより頭いいですし。外来種なもんだから生態系も破壊するし。ブラックバスとかブルーギルとか、どうして人ってそういうとこ軽率なんですかね」


 愕然とする私に気付かないまま灰賀青年は文句を言いつつ、すべての本の貸出をして、私のバッグにそれを詰め込んでさえくれ、綺麗に整えたそれを渡してくれた。


「って、大晦日なのにこんなことばっかり言ってたら暗くなっちゃいますね。今年はどうもお世話になりました。来年もよろしくお願いします」


 返却日は一月十三日です、と言ってはにかんで渡してくれるのを受け取り、私は努力して笑顔を作った。


「ありがとう。よいお年を」



*



 虚しい。

 恥も外聞もなく道の途中で泣き叫んでみたい。

 しかしその気持ちも、初めからなかったかのように瞬く間に消えてしまう。それが去年の私と、今年の私とで異なる部分であり、きっと来年になれば、初めから虚しさすら感じなくなるのかもしれない。


 生きる時間が長くなればなるほど、裏切られた期待の数は多くなる。珍しい色の鳥を見たから幸せになれそうだ等というあまりにも幼稚な思い込みは、むしろこの年になるまで保っていただけ随分な長寿だったと言えるだろう。


 昼も夜もないような曇り空を見上げても、もう何を期待することもない。ただ、噛んでいたガムから味が抜けてしまったような手応えのなさだけが胸を衝く。


 信号は初めから青だった。コンビニを横切り、少し歩き、大きなカーブミラーのところを曲がって神社の裏手へと入っていく。


 そのカーブミラーに一人、若い女性が佇んでいた。私と同じくらいにも見えたし、灰賀青年と同じくらいにも見えた。彼女はじっとそこに立って、カーブミラーを見つめている。待ち合わせのようには見えない。その立ち姿からは、深く思考を巡らせている人に特有の空気が漂っていて、この気怠い年末の街からぴん、と張り詰めて浮き上がっているように見えた。


「何を見ているんです」


 話しかけていたのは、もう一分もしないうちに部屋に戻って、溜息を吐く自分の姿が見えて、うんざりしていたから。

 彼女は突然に話しかけられたにもかかわらず、動揺もしないまま、どころか私に目線を移すことすらせずに、右の腕をゆっくりと上げた。


「あの目隠しなんですけど」


 指さしたのは、カーブミラーの下、ポールにかけられた四角い形の何かを覆っている、黒いゴミ袋。


「あれはいつからありましたっけ」


 話しぶりから、このあたりに住んでいる人かもしれない、と思う。


「さあ。なんとなく見慣れないので、つい最近のことではないかと思いますが」

「ですよね。あの目隠しの下、何があったか覚えていますか」


 さて、そう言われるととんと覚えがなかった。


「小さい鏡ではないですか。てっきり凍結防止で塞がれているものかと」

「カーブミラーなら大きいのが上にあるじゃないですか」

「ここの交差点は狭いですから、それで特別なのかもしれません」


 いいえ、と彼女は首を横に振った。


「私、ついさっきからこのあたりをうろうろと歩き回ってみたんです。でも、どこのカーブミラーの下にも同じように黒く覆いがかけられていました。ここだけのことじゃないんです」


 ほら、と彼女が指さす先を変える。私のアパートを挟んでその先に、確かに別のカーブミラーがあり、その下にも四角い何かを覆うように、黒いゴミ袋が張り付けられていた。


「一つや二つくらいだったら、私も気にならないんです。でも、あんまりたくさんあるのに一つも思い出せないものだから、一体何がそこにあったんだっけと気になってしまって」


 ふぅむ、と彼女は息を吐き、緩く握った拳を口元に押し付けた。

 その彼女が、私に向き合って、すみませんどうもご親切に、と言い出す前に、私は言った。


「知らない方がいいこともあるのではないですか」


 思い出されるのは、というより先ほどからずっと思考の半分くらいを使っているのは、先ほどの緑の鳥である。


「確かにそこに何があるのかは気になりますが、知ってしまえば大したことではなくなってしまうかもしれません」

「ええっ?」


 彼女は、思いがけず激しい驚きを伴って私の顔を見た。

 私はその瞳に、何か心の情けないところを見止められた気がして、言い訳するように言う。


「緑の鳥を見たことがありますか。このあたりで」

「緑の鳥ですか? いえ。そんな鳥がいるんですか」

「はい。私はつい先ほど見かけて、それはもう、目が開くような鮮やかな色をした鳥だったんです」

「へえ! 私も見てみたいです。でも、それが何か?」

「ああ、えっと……」


 そこで口ごもってしまう。

 ついさっきの灰賀青年の反応があったから、人にこの鳥の話をして、ここまで素直に興味を持たれるとは思わなかった。わざわざそれがインコで、害獣呼ばわりされているのです、等と付け加えることに罪悪感を覚えてしまう。


「いえ、何でもありません。妙な話をしました。忘れてください」

「ちょ、ちょっとそれはないんじゃないですか」


 今度は女性が焦ったように言う。


「私、ただでさえ今年に置き忘れてしまいそうな謎を考えてるんです。この上さらに気になることを言っておいて、答えは教えないなんてひどいですよ」

「いや、しかし。ちょっとこれはあまりにひどい話で……」

「いいから、教えてください」


 そうきっぱり言われると、流石に逃げ場をなくして私も白状する。


「インコなんだそうです。その鳥」

「インコ?」

「はい。ついさっき知人に聞いたんですが、害獣としてこの辺りでは困りもののようで……」


 私の言葉は途中から、内容に不釣り合いなくらいの落ち込みを帯びる。女性は私の話の内容か、それともその話し方かに困惑している。


「そうなんですか。インコが相手ならお話もできていいと思ったんですけど、害獣ならちょっと困っちゃいますね」


 お話、という発想に内心で驚きながら、


「そうなんです。だから、知らないままの方がいいこともあると私は思うのです。夢が壊れてしまうくらいなら、初めから知らない方がマシではないですか」


 女性は、私の言葉を真剣に受け止めてくれたように見えた。目線が左上に向いて、頭の中にあるものを組み立てるようにしてから、そして不意にこう言った。


「いいじゃないですか、がっかりしたって」


 あっけらかんとして言ったが、それは思考の末に生み出された言葉特有の、妙な重みを伴っていた。


「ちゃんと知ることでがっかりするものなんて、初めから期待するに値しないものなんですよ。もしも正体を暴いて本当に立派なものだったらそれを追い続ければいいし、がっかりするようなものだったらそこで見捨てればいいんです。知らないことは知らないままになんてしていたら、一生つまらないものに振り回されて生きてしまうかもしれませんよ」


 だから私も、簡単には納得せず、しっかりその言葉を受け止めて、考えた。


「それでも、信じていたかったな」

「じゃあきっと、あなたが見たのはインコじゃなかったんですよ。本物の、緑の鳥だったんです」


 慰めるように彼女が言ったのに、そうだといいな、と頷き返す。


 それで話は終わり、彼女は再び黒い覆いを見つめ始めた。やがて見つめるだけでは飽き足らず、それをぺたぺたと触り始める。木ですね、と言う。では看板だろう、と私は思う。近寄って、さっきのお礼にと思った。


「あ」


 び、とそれを破る。少し力は必要だったが、それでも案外、思っていたよりも簡単に破れた。女性は私の顔を見たが、それは咎める目線ではなく、共犯者への微笑みだった。


 彼女も手を添える。がさがさと音を立てて、その袋を剥がしてしまう。


 出てきたのは看板で、こんなことが書いてあった。



『笑顔あふれる やさしい街に』



 何の変哲もないような、誰が決めたのかもわからないような標語。

 私はそれをじっと見て、彼女もそれをじっと見て、やがて私たちは顔を合わせた。


 吹き出したのは、私が先。

 走り出したのは、彼女が先。


 そうして私たちは、夜になるまでずっと、この街に隠されている優しさのすべてを暴いて回ることにした。



 ひょっとすると今年はいい年で、来年もいい年になるかもしれない。

 そんなことを、思いながら。





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