美しい思い出は美しいまま終わった
三つのキーワードをランダムに引いて書いた短編です。
今作のキーワードは「自転車 屋上 ようこそ」です。
俺は自転車を漕いでいる。
随分古くなった自転車を、限界まで速く、走らせる。
カラカラと嫌な音を立てる自転車は、いつチェーンが外れるかわからない。
それでも、とにかく俺は、力の限り自転車を漕いでいた。
就職して、実家からも足が遠のき、ただ会社と自宅の往復を繰り返す日々を生きていた。
たまには帰ってきなさいという親からのメールを見て、久々の帰省を決めたのが二日前。
そして今日、大晦日、帰省ラッシュが落ち着いた時間を見計らって新幹線に乗り、実家へと帰ってきた。
実家は賑やかだった。
親父は昔より無口になったけど、相変わらず小言の多いお袋と、子どもを連れて帰って来ていた姉貴。遊んでくれと騒ぐ甥と姪。
ここ数年味わっていなかった、賑やかな空気だ。
実家の周りには街灯も少なく、移動手段は車という田舎。最寄りの駅まで、歩くと一時間もかかる。バス停まででも、徒歩二十分だ。今回は駅まで父親が車で迎えに来てくれたけど、一人では大変で、それも足が遠のいていた理由の一つだった。
ワイワイと騒ぎながら年越しそばを食べ、カウントダウンの前に甥と姪ははしゃぎ疲れて眠っていた。
テレビでは毎年恒例の歌番組が流れ、外から微かに聞こえる除夜の鐘が、一年の終わりを告げている。
その時だった。
何がきっかけだったのか、自分でもわからない。
ただ唐突に、思い出した。
俺は慌てて寝間着にしていたスウェット姿のままコタツから飛び出てコートを羽織り、ドタバタと玄関へ向かった。
「ちょっと!こんな時間にどこ行くの?」
お袋に呼び止められたがそのまま通り過ぎようとして、勢いよく振り返った。
「自転車貸して!」
少し錆びた自転車に乗って、冷たい風を切る。
遠くに響く除夜の鐘が、俺に急げと言っている気がした。
最近はあまり使われていなかっただろう自転車が、カラカラ、キィキィと嫌な音をさせている。
でもそんなことは関係ない。俺は、行かなきゃいけない。行っても意味がないかもしれないけど、それは行かない理由にはならない。
冷たい空気を吸い込んで、胸が痛みを訴える。それでも急いで、急いで、まだ除夜の鐘が鳴りやまぬうちに、なんとか目的地に到着した。
ここは、こんなに小さかっただろうか。
昔はもっと広くて大きいと思っていた小学校は、古びて、小さな存在になっていた。
閉まっている門に手をかけ、ガチャガチャと音を立てながらよじ登る。
昨今の小学校はもっとセキュリティがしっかりしてるんじゃないかと思ったが、警報がなるわけでもなく、特に何事もなく敷地内に降り立った。
誰かが来ても困る。
そのままグラウンドを突っ切って、校舎内へ入る。ドアは開いていた。この学校大丈夫か、なんて思いながらも、階段を駆け上がる。
一段飛ばしで進んでいくと、どんどん足が重くなっていく。昔はあんなに体が軽かったのに。
それでも一気に四階まで走り抜け、肩で息をしながら、屋上へ続くドアに手をかけた。
ドアは、開いていた。
錆びついた金属がギィーと大きな音を立てる。
「ようこそ、天体クラブへ」
女の声がした。
知らない女の声だ。
こんな真夜中の小学校の屋上で何をしてるんだとか、それは俺もだろとか色々考えたけど、言葉にならなかった。
知らない女の声だけど、俺はコイツを知っている。
「遅刻だよ、大遅刻」
一歩、また一歩と近づくと、少しずつ顔が見えてくる。
あぁ、老けたな。なんて口に出したら殴られそうなことを考えながら、息を整える。
「十年後の大晦日、二十二時に屋上集合」
もう少女ではない、女性になった彼女は、それでも昔と変わらない笑顔で笑ってた。
「もう二十三時五十八分だよ。五年と、二時間五十八分も遅刻」
彼女は足下に小さなランタンを置いていた。約束の二十二時から、ここにいたんだろうか。いや、約束は、五年前の二十二時ではあるけれど。
暗い中、顔に近づけて腕時計を見ていた彼女は、白い息を吐いた。
左手の薬指には、微かに光を反射する、指輪が見えた。
そうか。彼女は、そうなのか。何て言おう。あの日、十年後に言おうと決めて飲み込んだ言葉を、十五年経ってしまったけど、言うつもりだった。
遅くなってごめん、俺は――。
頭の中をぐるぐると言葉だけが回り続ける。空気が冷たい。胸が痛い。
「遅くなって、ごめん」
視界が、言葉が、記憶が、ぐるぐる回る。
なんとか絞り出した言葉は、それだけで。
告げるハズだった言葉は、白い息になって冬の夜に消えた。