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怖い、恐い。どうしようもなく湧き上がるこの恐怖。抗おうという気力すらそぎ落としていくこの感覚を、緋豊は知っている。それでも、今ばかりは。
「へえ」
意外そうに、男は声を漏らす。明らかな戦闘態勢をとった緋豊と相対し、それでもなお余裕を崩さないその態度は、驕りなどではないのだろう。深くかぶったフードの奥。そこで光る青い瞳は冷たいほど澄みきっていて、人を傷つけて平気な者には似つかわしくない。
「逃げられないって判断は正しいね。でも、戦うってのはどうだろう。なにか勝算でもあるのかなぁ」
楽しそうにくすくすと笑う彼に、嫌悪感がこみ上げる。
「そうまでして助ける意味が、どこにあるんだろうね? やっぱりお前は面白いな」
ありったけの殺気と敵意をぶつけても、男の笑顔は崩れない。
「面白くて、くだらない」
矛盾を吐いて、底冷えのする目線を緋豊に向けると、ふわりと音もなく歩き出す。ぼんやりと見ているわけにはいかない、どうにかして止めなければ。――――どうやって?
答えを探す時間はない。虚をつくように、正面から突っ込んだ。すでに人とは呼ばれなくなった緋豊の、全力の疾走。けれど、余裕の表情を崩すことすらできないまま、あっさりと躱される。長く尾を引くマントの裾に触れることすらできず、そのまま通り過ぎ、慌てて振り返った。反撃――――はなく、腹が立つほど余裕綽々でのんびりと振り返ろうとしていた。
今だ。
死角に入るように再び男の脇をすり抜け、星楽を抱きかかえる。そのまま茂みの中へと身を隠せば、容易には追ってこられまい。
「甘いんだよ」
「あ、が……ッ」
背後から突然囁かれ、驚く間もなく蹴り飛ばされる。
「その程度でこのリアン=オースディを出し抜けるとでも思ったのかい?」
くつくつ、と笑い声を漏らす。助けられるわけがないのに助けようと必死になるその姿は、彼の目にはどれほど滑稽に映るのだろう。そう、分かっていた。拳を交わす前から本能的に感じ取る圧倒的な実力差。それを埋める手など今の緋豊は持ち合わせていない。星楽に気を取られているうちに自分だけ逃げてしまったほうがよほど現実的だ。それすらも、成功するかどうかは賭けですらある。
「まったく、なめられたものだね。人間の域を出られないお前が、僕らに適うわけがないじゃないか」
「……どういうことだ」
リアンの言葉に、眉を顰める。その言い方ではまるで――――。
「……ふ、ふふふっ」
一瞬目を瞬かせたかと思うと、リアンはくすくすと楽しそうに笑い出した。
「どういうこと、だって? そのままの意味じゃないか! 人の、それも人間であるお前は、どうあがいたって鬼たる僕には敵わない。至極当然のことだろう?」
それとも、と緋豊を見下ろす目は見たものを射すくめるかのようで、どうしようもなく体が震えた。
「お前は僕が人間だとでも思っていたの? ああいや、違うか。――――自分が化け物だとでも思っていたの?」
化け物ではない、というのか。これだけ人間とは思えない力があって、そのせいで人としての社会に馴染めず、だというのに人間であるから守りたい人を守れないと。そんなことは、認められない。ずっと、お前は人間だ、などと認めてもらいたかった。けれどそれは、こんな侮辱混じりのものではない。望んでいたものは、これではなかった。ひとつの夢を打ち砕かれたかのような惨めな気分に陥り、混乱の中でリアンを見つめる。
「さて、と」
愕然としている緋豊を置いて、リアンは星楽に向き直った。
「!! せい、ら……!」
しまった、と我に返る。抱きかかえたはずの星楽は、衝撃で腕からすり抜けてしまっていた。つまり、彼女は今、奴の足元にいる。
「やめろ、やめ……!」
なかば悲鳴のように叫んでリアンに飛び掛かる。自分の攻撃など届くわけがない。けれど、そうして気を引かなければ一瞬で星楽の命は消し飛ぶ。
「おや、まだ来るか。諦めてしまったほうが楽なのにね」
緋豊の渾身の一撃を軽く受け流し、リアンは言う。聞こえないふりをして反転し更なる攻撃を見舞うも、ことごとくが躱されるか受け流されるか。どうしても、届かない。
そのうちに、今までとはまた違う厭な光がリアンの瞳に宿ったのを見た。突然、何かが視界を塞ぐ。
反射的に、それを払いのけて――――気付いた。小さな悲鳴を上げて落ちていったそれがなんなのか、いや、誰なのか。
「駄目だ、星楽! ……っ」
星楽を投げつけられたのだ。それも、緋豊に気取られないよう巧妙に。
間に合わないとは分かっていながら、緋豊は星楽に手を伸ばす。が、そのがら空きの腹部に拳を叩き込まれ、力なくその場に崩れ落ちた。
「あは、ははははははははははははは!!!!!!」
どさり、と星楽が落ちる音をも掻き消さんばかりの嘲笑が、大気を震わす。
自衛のための目くらまし、などではない。今まで散々緋豊を弄ぶように躱してきたのに、そんなものを必要とするはずがない。単なる遊び、気まぐれなのだということは、容易に想像がついた。
「欲張って誰かを守ろうなんて思うからそうなるんだよ。弱いくせに! あっははは!」
体が震える。それは、痛みによるものか、屈辱によるものか、悲しみによるものか。それとも。
「なんで、お前は、どうして……!」
頭上から降り注ぐ笑い声の主を睨みつけて、緋豊は歯ぎしりをする。
「星楽は、関係ないじゃないか! それをどうして! お前の目的は私ではないのか!」
「そうだね、関係ない。だからこそ殺すんだよ。最初から関わっているものなら、もうとっくに計画には組み込まれているだろうからね」
うずくまったまま、緋豊はリアンをただ睨みつける。睨みつけることしか、できない。計画というものがなんなのか。そんなことはどうでもいい。ただひとつ確かなのは、この男は紛れもない『悪』であり、敵であるということだ。
「それにさ。僕はお前を殺しに来た、なんて言った覚えはないよ? 勝手に勘違いして怒られても困るなあ」
くつくつと笑う態度は余裕の象徴。それを覆す力は今の彼女には無い。
会話などしている場合ではない。痙攣と言っても差し支えないほど震える体を引きずって、緋豊はリアンに背を向けた。自分を殺しに来たのではない、などという彼の言葉を信じたわけではない。背を見せて殺されるなら――――それでもいいと思った。
「ふうん。そこまでして助けたいの? まあ、もう死んでるけどね」
「……そんな、ことは」
「あれで生きてたらそれこそ化け物だろう。諦めの悪いことだね」
先ほどとは打って変わって、至極つまらなさそうな声色で紡ぐ。そんな言葉を無視して、ただ足を進めようとした。
おぼつかない足取りで、どこまで行けるものか。リアンがそう笑おうとした矢先、思った通り、木の根にでもつまずいたのか、斜面を滑り落ちた。それでもなお。這ってでも星楽のもとへと行こうとする。その姿は、いっそ執着と称してもいいほど。
「本当に、馬鹿だ。僕らがなにをしたってどう足掻いたって、所詮は『彼女ら』の手のひらの上なのに」
リアンは、緋豊に見せていたものとは対照的な、なにかを哀れみ嘆くような視線を彼女に向けた。




