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本当に、それは一週間後。
「この前は、急に帰ったりしてごめん。その、やっぱりちゃんと聞いておきたくて」
いまだ動けずにいた緋豊の前に、月乃は現れた。気まずそうに伏し目がちで謝る月乃にさすがの緋豊もきついことは言えず、日陰になる木の根元を勧める。
「いいのか? 聞かないほうがいいことかもしれないぞ」
「そう、だろうね。でもさ」
結末の明らかな物語。今この世界に星楽はいない。彼女は死んだ、殺された。主人公が死ぬと分かっている本のページを開こうとする、その理由は。
「やっぱり、ちゃんと知りたいじゃない。あなたは知らない不可解なこともあるし。なにより、私は星楽のお姉ちゃんだから。妹のこと、分かってやりたいと思うのは当然でしょう?」
お姉ちゃんだから。その感情は、緋豊にはよく分からないものだったが。
「そうか。それなら隠しちゃいけないな」
泣きそうになりながらもまっすぐ微笑んで緋豊を見つめるのだ。こちらもまっすぐ見つめ返さねばなるまい。
「……春陽はいないのか?」
どうせ話すならふたり一緒に、と思ったが、春陽の姿は見当たらない。月乃はゆるゆると首を振った。
「あたしがいても仕方ないでしょ、って。緋豊ちゃんと月乃の問題なんだから二人で話してきて、遅くなったらあたしがごまかしておくから、とか言って来なかったよ。……あの子嘘は下手だから、ごまかしておくって部分にはあまり期待してないけど」
緋豊は意外に思いながら聞いていた。馬鹿だと思っていたが、案外そうではないのかもしれない、と春陽に対する評価を改める。
「さて、そういうことなら遠慮なく話すとしよう」
それが起きたのは、3年前の秋。緋豊が10歳になった年のことである。
星楽は迷子として緋豊の前に現れた。
「ふ、ふぇええええ」
「わ、馬鹿泣くな」
当時5歳だった星楽は、家族とはぐれたのか観光用の山道から遠く離れた山の中でさまよっていた。小さなこの山は紅葉の名所となっているようで、秋が深まるほどに人が増えていった。今から思えば、この山は春陽や月乃と出会った場所と同じ山なのだろう。緋豊が星楽を見つけたのは、人と出会うことを避けるために別の山かどこかへ移動しようとしていた矢先のことである。
「困ったな、こどもの世話など私には……」
送り届けるにしても、親の居場所も知らなければどうしようもない。交番の場所も分からないし、なにより人と会いたくない。薄汚れた衣服に、ろくに食べていないためやせ細った体、ぼさぼさにからまった髪の毛。こんな外見で誰かに会えば、不審に思われるだけでは済まないだろう。
「とにかくだ。お前、名前は?」
「せいら……。お姉ちゃんは?」
「私か? 緋豊という。それはいいが、お前どうしてこんなところにいるんだ?」
「お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんと、遊びに来てたの。そしたら……」
「はぐれたわけか」
「……うわぁあああああああん」
「あー、だから泣くなって」
困り果てた緋豊は、泣きじゃくる星楽を抱きかかえ背中を撫でた。よく覚えていないが、幼いころはよくこうされていたような気がする。
「ふえ、うぅ……」
「……落ち着いたか?」
「うん……」
星楽を抱いたまま、どうしたものかと途方に暮れる。どうしようもないが、かといってこのまま放置するわけにもいかないだろう。
「どのあたりではぐれたんだ? とりあえずそこに向かってみよう」
「うん……。向こうのほう」
「分かった、向こうだな」
星楽が指差したのは北の方角。そちらに足を向けると。
「やっぱりこっちかも」
「……南、か?」
「分かんない」
すると、また顔をくしゃくしゃにして。
「わかんない! わかんないよーー!!」
「ああああほら! 落ち着け! 落ち着いてくれ頼む!!」
再び泣き出した星楽をあやすようにゆすりつつ、緋豊自身パニックに陥る。
とにかく、山道のほうに行ってみよう、と緋豊は歩き出す。遊びに来ていたというのなら、おそらく紅葉狩りかなにかだろう。それならば、はぐれたのは山道付近とみて間違いないはずだ。
運に恵まれて家族を見つけられればそれでよし、駄目ならどこかに預けよう、一応観光名所となっているのなら、そういった場所はあるはずだ、などと考えながら、緋豊は山の中の道とも呼べない道を歩く。が、今回に限っては緋豊は運が良かったようだ。
「あ、お姉ちゃん!」
おとなしく抱かれていた星楽が突然身をよじる。降ろしてやると、先ほどまで泣いていたのが嘘のような笑顔で走り出した。なにかにつまずいて転びやしないかとひやひやしながら見ていたが、その心配もなく無事に姉らしき少女のもとへたどり着く。
やはり向こうも星楽を探していたらしく、心配そうな顔で怪我がないかを確かめていた。
なるほど、よく似ている。大きな黒曜の瞳も、艶やかな黒髪も、そっくりだった。これが家族なのかと若干の虚しさに襲われつつ、緋豊がその場を後にしようと背を向けたその時。
「ひとみおねーちゃん! ありがとう!」
大きな声に、緋豊は思わず振り返る。満面の笑みで手を振る星楽と、不思議そうな顔をしながらもぺこりと頭を下げる彼女の姉と、目が合った。
「そのことは、私もよく覚えてる。よく分からないけど、星楽を助けてくれたいい人なんだって思ってた」
「いい人、ね」
月乃の言葉に、緋豊は相も変わらず無表情で目線を返す。月乃としても、緋豊が本当に星楽を殺したというのならその評価は改めなくてはなるまい。
春陽と同じように、月乃もまた、緋豊が人を殺したなどとは思えなかった。巻き込まれた原因は彼女とはいえ、ろくに動けないほどの大怪我を負ってまで自分たちを助けてくれた人間が自分の妹を殺したなどと、どうして信じられようか。月乃も、出会ったばかりの人間をすんなり信用するほど幼くはないが、恩人が妹の敵だなどと思いたくはない。――――そう。『思いたくない』などという願望でしかない。
彼女が本当に敵だったとして、自分はなにをするのが正解だろう。ふと、そんな思考が脳裏をかすめる。仇討ち、という単語がぼんやりと浮かんだが、一秒未満で追い払った。あまりにもありがち、そして非現実的。きっと自分は、どれだけ彼女を憎むことになろうと、なにもできず、なにもせず、何事もなかったかのように生きていくのだろう。そうするしかないのだろう。月乃は、ただの少女にすぎないのだから。物語の主人公には成り得ないのだから。
ならば――――なんのためにこんな話をしているのだろう。なにもできないと分かっていながらこの悲劇の頁をめくる意味はあるのだろうか。
「……やめるか?」
今になって現れた迷い。それを敏感に感じ取って、緋豊は問う。
「ううん。続けて」
月乃は静かに首を振った。
「私は聞かなきゃいけない。だって……」
彼女を突き動かすのは、ただひとつの思い。
「私、お姉ちゃんだもん」